2020年06月29日

「文学館22」作・田畑稔(no.0374.2020.06.30)

 この頃ったら面白いお笑いがない。いや、面白いお笑いというのはおかしい。面白いからお笑いなんであって、面白いお笑いがないなどと嘆くことは論理的に言ってないはず。面白くなければそれは単に面白くないというだけの話だ。だから昔はシビア。お笑いに対して実にシビアだった。寄席行って面白くなければ本当に木戸口でカネ返せと押し掛けたもの。それくらい笑いにはシビアだった。だから芸人さんたちも真剣だった。お客さんにカネ返せなんて怒鳴られた日にゃ、興行主に明日からもう来なくていいよと言われちゃう。そりゃあ真剣だった。

 昔は笑った。本当に腹の底から笑った。芸人さんやタレントさんは笑わせてくれた。上方でいう笑かす。笑かしてくれたわーって。何に笑ったんだろう。それはあまり覚えてない。でもいいんじゃないかな。笑いってその時瞬間のもの。パーッと過ぎ去っていく。それでいいと思う。その風のように過ぎ去っていく笑いに命を懸けるんでしょ、芸人さんは。でもその笑いの質が変わった。どこがどう変わったかをあまり上手に言えないんだけど、変わった。年を取ったということなんだろうか。笑いについて行けてないんだとしたら情けないが、ある意味仕方がない。

 下宿屋・文学館の賄兼掃除請負のユリは笑いにも一家言持っている。まず最近の笑いは冷笑が幅を利かせている。冷笑というのは必要な笑いなんだろうか。本来笑いとは温かいものだろう。なのに、蔑み、見下す笑いがとても幅を利かせている。ユリは大いに苦手だ。
 次に、最近の笑いは中抜きが多い。笑いというものは明るくサラッとした乾燥したものだけど、中抜きしていいとわけではない。抜いちゃだめだろう。順を追っていかなければならない。聞いてる人は不特定多数。客は年齢、出身、門地それぞれ違う。それなのに、これはわかってるはずだからという前提を勝手に設置して話を前に進める。飛ばしちゃって結論持ってくる。1→2→3→4→5と行くところを最近では1→3→5あるいは1→5という具合に中を抜いちゃう。おかしいよね。客は共通に価値観なんか持ってない。

 三つ目に、若い人は直感的に笑いを捉える。昔のお笑いって、けっこうしつこく笑いの説明をする。ほらこういう筋があるから笑ってねと話の筋をまず説明する。それは当たり前だった。だから昔のお笑い芸人はけっこう理屈ぽかった。おのずとそうなっちゃう。ところが最近のお笑いは客に直観的に反応することを求める。これも前提があるということなんだけど、会社の慰安旅行じゃないんだから、お客の価値観がみな同じってことはないんだ。だのに、それを前提でどんどん話が進んじゃう。

「結局、ついて行けないあんたが悪いんだって? 冷たいこと言わないでよ」
 ユリはベンチに座ってため息をついた。夕飯のおかずを買いにきたのだが、まだ買い物カゴはカラだ。
「賄さん、文学館の賄さん」
 後方から聞いた声がしたと思った。
「あら、お肉屋さん。お久しぶり」
「久しぶりだよ。賄さん、最近ぜんぜん見なかったから文学館やめちゃったのかと心配してたよ」
「そうね、ご無沙汰して申し訳なかったわ。ちょっと考え事してて、そうしてる間についていけなくなっちゃって…」
 肉屋はユリを手招きした。
「賄さん、聞いてよ。さっき変な客が来たんだよ」
「へんな客って?」
「まん丸いメガネかけてカンカン帽被った中年の男だったんだけどさ、牛鍋の肉くれっていうの」
「牛鍋?」
「そう、オレも肉屋長いけど、牛鍋の肉くれって言われたの初めてだよ。オレ一瞬考えちゃった。牛鍋ってことは、すき焼きのことかなと思って、いつも通り高い霜降り肉買わせようと思ったら…あ、もとい。もといね、高い霜降り肉ってのは忘れて。だからね、すき焼きの肉でいいんですねと言ったら違うという。違うといわれてもねえ、同じ牛肉だろ? 牛鍋とすき焼きの違いなんてわかんない、同じものにしか感じないし…」
 ユリは言った。
「それで、お肉屋さん。どうしたんですか?」
「だからね、ちょっと芝居打ってさ。冷蔵庫から同じ霜降り肉出して、はい牛鍋肉お待ちどう様とやったわけよ。同じ肉なんだけどね」

 相変わらず商売上手の肉屋だ。ユリは結局牛鍋肉と称する霜降り肉を買わされてしまった。それも肉屋の商売上手に丸めこまれた。牛鍋にはタレが必要だろう。賄さん、タレといっても肝心なのは味醂だ。味醂てのがミソ。味醂は全ての調味料の原点だ。味醂には甘さも入っている、お酒も入っている。あとは醤油ちょっと垂らせばいい。ナントカのタレとかいう既製品は要らない。ただ甘ったるいだけだからね。それから賄さん。牛鍋にはなんてたって卵が必要だ。いい卵が入ってるんだよ。見なよこの茶玉。高級卵は茶色なんだよ。これはしかも地鶏の卵。北関東の寒いとこで飼われてる実の締まった地鶏が生んだ卵だ。強いんだよ。割ってみな。黄身がなかなか割れないから。そのなかなか割れない黄身を溶かして霜降り肉をすくう…。

 まあいいや、きょうは文学館に新しい先生がいらっしゃる。高級肉に舌鼓を打とうと文学館に戻ったら既に人がいた。太った体躯、黒の上下のスーツ、細身のネクタイ、しかもカンカン帽を被っている。何より印象的なのは黒い縁の丸メガネ。太っていて丸メガネ。とっても愛嬌が感じられる。男はすき焼き鍋に味醂を注いでいる。

「いらっしゃいませ。文学館にいらしたお客様でいらっしゃいますよね。あたくし下宿屋・文学館の賄兼掃除請負のユリと申します」
 男は何も言わなかったがとても愛らしい笑顔を返した。
「牛鍋食べさせたいと思ってさ」
「牛鍋でございますか?」
「そこの商店街の肉屋に牛鍋用の肉をくれと言ったら、あったんだよ。ないかとも思ってたんだ。このごろ牛鍋って言わないだろ」
 ユリは返事に困った。あの肉屋、お客を上手く丸め込んで牛鍋と言いながらすき焼き肉を売りつけた。だからといって嘘をついているとは言い切れない。牛鍋とすき焼きが違うとはユリにも思えない。

「割り下は味醂だよ。味醂こそ最高の調味料。下総佐原の白味醂だ。いろいろ使ったがこれだねやっぱり。もう味醂だけでいいくらい。この浅い皿に薄く切った肉を敷くだろ? ここに味醂を撒き散らす。そして醤油。野田もいいが下総山武の大高醤油。下総続きになっちゃったけど、だから私ら東京の者と千葉は昔から大いに関係がある」

「東京の方ですか?」
「東京は麹町にございます。ですからね、牛鍋なんです。すき焼きじゃない。すき焼きは関西から来たもので、牛鍋とは似て非なるもの。三河屋の牛鍋といえば秘伝の割り下。秘伝と言ってもようするに上質な味醂。上質なというところが肝心で、よく売ってる味醂風味なんてケチなものじゃあダメ。しっかりとした本物の味醂でなきゃ。それからザクはネギ。三河屋といえばザクはネギ一本。余計なものに手出さない」
「ザクってなんでございますか?」
 男は眼鏡をちょいと引き上げた。
「ザクというのはザクザク切るものから来てる。切るとザクザク音がするものだからいくつかあると思うけど、要するにネギ。三河屋はネギしか出さない。だからザクとネギは同義。あたしら江戸っ子間ではね」

 ユリは感心した。この男、随分料理に詳しい。だからといって板前やコックではない。衣装が白くないし、職人さんという雰囲気ではない。むしろ所作が優雅だ。貴族様かその出かもしれない。
「お客さま。牛鍋とすき焼きの違いは、ザクと呼ばれるネギをいれるかどうかでございますか?」
「そう、ザクは大きな違い。例えば関西のすき焼きにはネギの青いところも使う。むしろ青いところを珍重する。ここは東京と大きな違い。東京はネギの白いところに価値を置き、青いところはむしろ捨てる。ネギ農家も、ネギの白いところができるだけ長くなるよう畑の土を盛ったりする。関西はそうではない。ネギの青いところは長くていい。長ければ長いほどいい。ほかにも青菜、ゆば、麩まで入れる。そしてなんといっても砂糖。私が行った店ではザラメなんかを、ザラっと入れちゃう。洒落じゃないけどね、ザラっとね」
「ザラメをザラっといれるんですか! 関西のすき焼きではザラメをザラっといれるんですか! そりゃ驚きましたわ」
 そういうふうに、醤油っ辛いものばかり食い慣れている東京の人間にとってはすき焼きは生ぬるいものだと男は言った。

「肝心なことは、牛鍋には卵を使わないということ」
「卵使わないんですか?」
「そう、使わない。肉を溶いた卵をくぐらせるというのは関西のすき焼きでの話。牛鍋に卵は使わない
「あら、どうしましょう。卵買って来ちゃった。肉屋に丸めこまれて地鶏の卵買ってきちゃった。しかも北関東の地鶏の卵。寒いところですくすく育っているので身が締まってるって」

 薄切り肉なので、牛鍋はすぐに煮あがる。早くも食らいついてる者がいる。女だ。目はきついが大きくて鼻筋が通っている。どこかの女優さんみたいな、昔の言い方ならエキゾチックなと言いたくなるような美人だ。その美人が牛鍋を美味そうに次々食っている。

「こちらは牛肉の米久の娘さん、松竹の専属スターです」
 はるほど、どうりでエキゾチックな顔立ちだと思った。見ると、牛肉に生卵を付けて食べている。
「生卵、お食べになるんですね」
「ああ、こいつはすき焼き方式が好きみたいで」
 あんなに否定していたのに、女には生卵を食べさせるのか。意外と融通が利くというか女に甘い。しかもザクはネギの白いとこに限るとか言っておいて、ネギの青いとこ、青菜に湯葉、麩、仕上げだと言ってザラメに味噌まで加えた。そして肉を入れ混ぜこぜにしてる。それが東京の通の食べ方なのだろうか。通にはかなり遠い気がする。ああ、男は口をあーんと開けて女に食べさせてもらってる。最初はどこぞの紳士かちょっとした貴族様かと思ったが、これじゃあただのスケベオヤジじゃないか。

「一つお聞きしたいことがありますが、お客様は何をしていらっしゃる方でございますか?」
 男はまた口を開けて女にすき焼きを放り込んでもらっていた。
「私の職業かい? ヴォードビリアンだよ」
 ヴォードビリアン! 最近ではあまり聞かない職業だ。喜劇役者ということなのだろうか。それならそれでユリにはとっても興味のある職業だ。もう少し詳しく聞いてみようとそう思ったとき、玄関に誰かがやってきた。

「はーい。ようこそいらっしゃいました」
 中年婦人がいた。上下は灰色のスーツ、落ち着いた色合いだが帽子が派手だった。つばが広い黄色いスエード、何の鳥だろう日本では見られないような大きな羽根を差していた。

「こちらは下宿屋・文学館でございますか?」
「はいそうでございますが」
「だったら、宅の亭主が来ていると思うんです。彼女を連れて」
「彼女?…、もしかして、あの目鼻立ちがしっかりしてて背の高い、こうお胸もお尻もバンと大きく張って…」
 女は怒った。
「やっぱりいるんですね。亭主ったら、目鼻立ちが大きくてグラマーな女がいるとすぐ手を出しちゃうんだから…」
 女が身を乗り出そうとしたのでユリが慌てて制した。
「あの、お客様はヴォードビリアンと申しております。お間違いございませんか? お客様がお探しは、なんておっしゃる先生でございますか?」
 女は上がり込んで両手を腰に付けた。
「うちの亭主の名前ですか? ちょっとは知られているヴォードヴィリアン古川ロッパでございます」
「えー? あの有名な古川ロッパ様でいらっしゃいますか?」

 婦人が突き進むのを先回りして居間に入ったら、古川ロッパと彼女はいなかった。裏木戸から誰か出て行った。太った男と背の高いグラマラスな女が手をつないで走っていた。ずいぶん焦っていたようで、先生お気に入りのカンカン帽を室内に残していってしまった。そうか、だから先生はハゲをしっかり後ろに晒して気づかないで走ってる。さぞや怖い奥様なんだろうなとユリは感心した。
(了)






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2020年06月27日

「魚拓」作・田畑稔(no.0373.2020.06.29)

 魚拓ってのはほんと上手いこと考えたね。誰が考えたか知らないけどね。魚ってのは、ナマもんだ。放っておくとすぐに腐る。ということは釣果ってものを残す方法がないんだよね江戸時代にはね。ところが、誰かが考えた。魚拓を取っておけばいい。方法を二つあって、たぶんこっちが最初だと思うんだけど、魚に墨を塗る。それに紙を合わせる。これが直接法。簡単だね。だが、一つ問題がある。墨塗って紙に写すと、元の魚の左右が逆になる。一方の間接法は元の魚に紙を重ねてその紙に色を付けていく。この場合、左右は反対にならないし、色も様々選べてとってもきれいだ。

 だから考えた人はどこの誰かって聞いたら、最初の魚拓ってのは錦糸町で釣れた鮒が始まりだっていうから、そりゃ日本人だよね、間違いなくね。江戸時代だから、釣竿も現代のように軽くてしなるファイバー製などはない。まあ竹竿だろうな。糸は垂らすだろう。だから大物を釣るにはとても技術がいる。まず魚が、釣り針に食らいついているということに気付かれてはいけない。糸のついた釣り針を大物に食わすことは食わすんだが、そうっと食わす。やつは食ったことに気付いてない。それくらいそうっと食わす。間違ってもやつの顎をぎゅっと引っ張ってはいけない。あれ? なんか水底を糸が這っている。でもオレと糸の行く末とは関係ない、関係ないから気にしない、まるで関わりなしと思わせる。そして後ろから、つまり尾の方からタモ網でそっと追いかけて、気づかないところで気づかないうちにタモ網を引き上げる。大物はさ、きっとまだ気づかない。あれ、オレってどうして空中にいるんだって、まだ事態を飲み込めてない。そのぜんぜん飲み込めてないうちに脳髄に針が撃ち込まれる。一巻の終わり。魚拓は取られる。

 とは言いながらも、釣った魚は今まさに泳ぎ出さんとするくらい生きが良くなければいけない。一種の嘘、ゴマカシなんだ。本当は死んでいるんだが生きているような魚拓を取らなくちゃならない。それが難しいといえば難しい。この難しさを越えて行かなくちゃ本物の魚拓マニアにはなれない。

 魚拓取った魚はどうするのかって? そりゃ魚、ほっとくとすぐ腐る。だからスピーディーに処理を進めて、魚拓取ったら食う。鯉でも鯛でも、食っちゃう。それは仕方がない。腐っちゃったら食えない。もったいないよね。だから魚拓マニアは同時に料理家でもある。それは和食のね。やっぱ鯉や鯛をササっとさばける人でなくちゃならない。もたもたしてたら魚腐っちゃう。

 そこで考え出されたのが、魚が生きている間に魚拓取っちゃうという方法。それは誰もが思うよね。魚を陸に上げて魚拓だけとってまた水に帰ってもらうという方法。それってどうやると思う? と言ったら誰かが魚を催眠術かけるんじゃないのいうから、ズバリ一回でピンポン。当たっちゃった。そう、魚に催眠術かけて眠ってもらっている間に拓を取る。そうなんだよ、間違いなく催眠術だ。

 いや、いくら催眠術で眠ってしまったとはいえ、魚だもの陸で息はできないだろう。眠らせることに成功しても息ができなくちゃ魚は窒息してしまうだろうという大いなる疑問が沸く。

「それがね、大丈夫なんだよ」
 わかった、ムツゴロウとかああいう魚だろ。ムツゴロウなら確かに泥の中、眼だけ出して息してるというのはある。その手だろうと聞くと、いや鯛だとかあるいは鯉だと言う。みると確かに鯉の魚拓はまるで生きているようだ。
「どうやって眠らせるの?」
 魚でも眠ることがあるらしいともいうが、それとは違う。魚は瞼がないので眠っているのかどうかわからない。だが動きは明らかに鈍くなる。寝ぼけることもあると言う。
「へー、魚でも寝ぼけることがあるんだ。じゃあ夢みたりすることもあるの?」

 それは十分にあるという。というより、魚にとって現実と夢の境目がはっきりしない。たとえば自分の捕食者である大型のサメとかが前に来ていたとする。しかし彼に現実と夢の境がないから、目の前にものすごい歯が並んでいる大きく開いた口があったとしても、それが夢なのか現実なのかがわからない。しかし巨大なサメの歯によって体は真っ二つ。そこで初めて、ああ現実だったのかと気づく。だがその時はすでに死んでいるのだから、いま身の上に起こった悲劇を教訓として伝えられない。したがっていつも同じことを繰り返すことになる。

「しかし、夢と現実の区別がつかないというのは何も魚だけではない」
「例えば?」
 男は新たな魚拓を見せた。それは魚拓よりだいぶん大きく、魚ではない生物が拓に取られていた。
「これは?」
「人間だよ」
「そうだよね、腕が2本、脚が2本。どう見ても人間だよね。人間だから「人拓」か。こんなの取るの簡単じゃないか、これだどうしたの?」
「まあ、簡単といえば簡単なんだけど…」

 男の話によるとこうだ。まあ、簡単な催眠術で彼は意識を失った。その間に「人拓」を取った。そこまではよかったのだが、その後がどうもいけなかったらしい。
「何がいけなかったの?」 
「戻らなかったんだよ」
「戻らなかった?」

 男の話によると、ある種の催眠術にかかった男は、その後どうしても元に戻らない。催眠術にかかりっぱなしになっている。その催眠術とは、現実と夢の区別がつかないという催眠で、男は依然として現実と夢の区別がつかないでいる。男を「人拓」として写し取ったのはいいが、その「人拓」が自分は生きていると主張し、紙の上で「人拓」としてそのまま生き続けている。それはお前違うんだよ、お前は墨で写し取った「人拓」なんだから、お前自身が人格を持つということはおかしいんだよと、さんざん口を酸っぱくして教えた。しかし「人拓」は自分は自分であり断固生きていると主張した。

「主張したけりゃ主張すればいいんじゃないか。確かに「人拓」が自らを主張するといのはおかしな話だが、自分でそうしたいならそうすればいい。まあ、勝手にどうぞ」
 客人は投げやりに言った。そういうふうに言ってくれるのはこちらとしてもありがたい。「人拓」にも「人拓」としても生活があるから、やっぱり支えてあげなくちゃいけないしと男は言った。ふと気づくとうしろに黒っぽい人影があった。なんだか墨絵で書かれたような人間が立っていた。男は、これが「人拓」だと教えた。「人拓」も人並みに腹が減ると見えて食を要求する。どうしてもそれに応えてやらねばならない。「人拓」にも好みがあって、食の進まないものは決して食さないが、きょうのようにお気に入りが現れると断固食す。うちの「人拓」はむしろ痩せて筋肉質を好む。筋肉が好きなんだろうというと「人拓」がゾンビのように口が耳まで裂けた大きな口を開け、客人の喉に食らいついた。
(了)









posted by 田畑稔 at 22:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「新機軸」作・田畑稔(no.0372.2020.06.28)

 新機軸が生まれた。まったく新しい。斬新、素晴らしいと言うほかない。なんといっても新しいことが注目だ。いまだかつてなかった。ふと思った者はいたかもしれない。だがそこで止まった。誰一人チャレンジした者はない。本当にないと思う。私自身はお目にかかりたいと思ったことはないし事実目にしたこともない。一度くらい思ったとしても以前なら決して実現しようとは思わなかった。だからこの世には現れなかった。現れても良いと思う。しかし現れなかった。そんなこと無理だと思ったんだろうか。到底不可能と思ったんだろうか。

 しかし世の中新しいものというのは、到底無理の中から現れるもの。またそうでなければ新しいものは生まれない。大多数の人が、そんなもの無理だ、あり得ないという。だから最初は受け入れられない。バカじゃないの? 頭がおかしいよって。ちょうどガリレオ・ガリレイがそうだった。地球が太陽の周りを回るって? そんなわけはないだろ。あんたおかしい、頭狂ってる。見なよ、太陽は東から上って西へ沈んでる、見りゃわかるじゃないか。それなのに、地球が太陽を回ってる? 地動説だと? ほんとにどうかしてるといわれたんだよね、最初は。だから本当に新機軸、天才の仕事ってのは最初は受け入れられない。バカ扱いされる、そういうもの。そもそも一般人というのは普通の頭の持ち主だ。天才についていけないのは、それは仕方がない。

 どうして思ついたかって? それはわからない。降りてきたんだろうね、何かが。誰が落としたのかって? それもわかんない。誰かが落としたんだろう。もしかしたらもう既に落ちていたのかもしれない。しかしこちらも凡人だ。傍に落ちていても気付かない、見えなかったんだ。そんなもんだ、凡人なんて。人間ないと思ってるものは見えない。ところがあると思うと見えちゃう。それが不思議だね。探すのをやめたとき見つかることはよくある話という歌があったが、ふと脱力すると見えたりする。 

 それにしてもよく見えたものだ。いや、見ようとしていたんだ。だからといって凡人にはすぐには見えない。ずっと温めていたんだろうね。自分でも気づかないうちに。自分でもわからない自分が探してた。ぜんぜん意識してないんだけど自分というものがあって、そこで探すか発掘してた。こんなものがあるはずだってね。そうして見つけた。だから自分はすぐにピンとこなかった。自分とは今の自分ね。あいつ、オレはここにいるぞと主張していたんだと思う。しかしこちらは凡人だ。全く恥ずかしいことに、わからなかった。すぐ目の前にいて子供みたいにじっと真下から見上げていたんだ、僕はここにいるよって。なのに見なかった、見えなかったんだ。しかし、ふと閃いた。何かが差し込んだ。

 気づいたときには本当に驚いたよ。ああ、こんなものがあったんだって。同時に思い切り後悔した、嘆いたよ。どうして今まで気づかなかったんだろうって。本当に地団駄踏んだ。悔しかった。どうして今の今まで気づかなかったんだって。今でも非難もある批判もあるよ。しかしこの世で一番最初に気づいて俎上に載せたんだ、それはオレだからなって言える。自慢できる。本当にオレが見つけたんだよ。いやあ素直に自慢するね。オレが世紀の大発見をしたんだって。

「それが、最後まで犯人のわからない推理小説かい」
 男が説明を始めた。
「そうだ。新機軸だろ? このところ、小説でもドラマ、映画でもだいたいやり尽くした感があるよね。かなりマンネリになってきている。どんな新しい推理小説、推理ドラマでもだいたいどこかで見たことのあるような内容になってきてる。なってるよね? もうここで新機軸で斬新てものを持ってこなきゃって思うんだよ」
「しかし、最後まで犯人が分からない推理ドラマって、ようするに解決しないということだね? 人々は解決を求めていると思うんだよね。破壊とか混沌とか無秩序とかがあって、人間その状態じゃ落ち着かない。精神的に不安定なままは嫌だ。だから解決しなきゃいけない。どうしてもね。そのため推理小説も推理ドラマも最後は真犯人が捕まるか死ぬかしないと収まらない。気持ちがね。そういうもんじゃないのかな。破壊、混沌、無秩序から整理され組み直されていく、そして統合され、新しい秩序を作る。つまり推理ドラマとは解決するためにある。解決されないと気持ちが悪いんだ、人って」

 では実際に見てもらおう、見てから感想をもらいたいと男はテレビドラマを見せた。まず古城に何人かの招待者が集められる。しかし集めた者は名前は出てくるが姿は見えない。そしてパーティー参加者が順に殺されていく。よくあるパターンだ。そしてパーティー参加者は二人だけになってしまう。互いにお前が犯人だと言いあう。だが二人の参加者も殺されてしまう。しかし犯人現れず終わる。

「結局なんなの? 犯人はいるわけでしょう? しかし最後まで分からない。分からずに終わってしまう。これが新機軸ねえ」
 男は反論した。
「犯人は最後にはわからなきゃいけないものという、常識に囚われ過ぎちゃいけないと思うんだよね。犯人は必要?」
「そりゃ必要だと思うよ。解決しなきゃ、ドラマというものは。現実の社会には未解決のままの事件てあるけど、ドラマの中では解決できなきゃいけないと思うけどね」

 男はあらたな考察をした。やっぱり犯人はいなきゃいけない。気分が悪いんだろ。そこは譲る。しかし新機軸でなきゃいけない。そこで考えた。犯人はわかるんだけど、普通であれば犯人て物語の終盤に現れるんだが、そこは新機軸。最初に犯人はオレだと読者と視聴者に教えておく。
「それってどうだろう。面白いかなあ」
「最初に犯人はわかってしまうので、時間がないならドラマも映画も最後まで見なくていい。時間の節約がはかれる」
 質問者は首をひねった。
「最初に犯人がわかってしまうと、あとの物語は要らないんじゃないの? はっきりいって。以後のドラマを制作する必要がない。そっちはそっちで問題なんじゃない? 物語が始まってすぐに犯人が登場するというのはね…」

 新機軸を発表した男はさらに考察した。まず、犯人登場させる。そしてそれは物語の終盤近くになってから。この2点を新機軸として採用する。これでどうだ、やったねと男は見得を切ったが、それではいま現在と何もかわらないではないか。どこが新機軸なのかなどとぶつぶつ言いながら質問者は帰った。
(了)











posted by 田畑稔 at 15:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする