2020年01月21日

「文学館5」作・田畑稔(no.0221.2020.01.29)

 文学館に新しい店子がやってくるというのでユリは張り切っていた。現在の店子はただ一人。目鼻筋はきりりの既に大作家の貫禄を十分に見せる店子だが、やや暗い。人物としては難しい。文学館の掃除兼賄いのユリとしてはもっと作家と交わりたいところではあるのだが、作家先生はなかなか在宅されない。だから下宿屋・文学館の掃除兼賄いのユリとしては物足りなくて寂しい日々を送っていた。
 ところが、文学館に新しい店子が入ることとなった。文学館の店子なのだから当然作家である。だが作品はまだ読んでいない。ユリは今度やって来る作家を想像した。現在の店子のように男前だろうか。できれば清潔のほうがいい。ユリは、本当は不潔な男はたとえ作家であっても苦手だ。洗ってくれというのなら喜んで洗濯板を取り出す。あるいは学生服は着たきりの垢でテカテカに光り猛烈に臭い、そんな作家の卵だろうか。あれこれ思いを巡らせるのもユリは楽しかった。
 ユリが箒とちり取りを持って玄関に出てみると、見慣れない物があった。誰が持って来たのか知らないが、また何のために持って来たのかも知らないが、タラバ蟹の缶詰が数個玄関に積まれてあった。
「タラバ蟹なんて高級品、こんな貧乏下宿屋に合わないわ。でも食べたいわ」
 ユリは辺りに声をかけた。
「タラバ蟹缶を持って来たのは誰ですか? いないと食べちゃいますよ」
 ユリはタラバ蟹缶をどう食べれば最も美味いのかを考えていた。なにしろタラバ蟹缶、ほとんど食べたことがない、いや食べた記憶がない。食べてもいいんだろうか。でも食べたい。いったいこのタラバ蟹の缶詰は誰のものなのだ。ユリは苛立った。
「食べちゃいますよ。どなたもいらっしゃらないのなら食べちゃいますよー」
 ユリは再度、玄関から下宿屋の隅々まで通る声で言った。
「食っていいよ。そのために持って来たんだから」
 背中で突然声が聞こえたのでユリは驚いた。無骨そうな男だった。男は漁労の仕事をしているような強い魚のニオイを発していた。
「あ、ありがとうございます。じゃあ、食べます」
「いいよ食って食って」
 ではタラバ蟹缶詰をどう食べればいいのと聞くと男は、タラバ蟹鍋を勧めた。
「カニ鍋ね。そりゃあいいわ」
 ユリはさっそく鍋の用意を始めた。ネギ、白菜、白滝、シイタケ、そしてタラバ蟹。出汁は関東風にさっぱりとした醤油。
「こんな大きなタラバ蟹の切り身なんて、見たこともない」
 ユリは椀にユリと男の分のタラバ蟹鍋を盛った。出汁の風味が鼻腔に飛び込んだ。これほど食欲をくすぐる鍋もないだろう。ユリは勇んでタラバ蟹を一切れ口に入れた。ユリはあまりの美味さに思わず目をつぶった。
「タラバ蟹ってこういう味だったのね」
 しかし男は蟹鍋を食べなかった。食べないでユリの食事を見ていた。
「あ、いけない」
 ユリは膝を打った。
「すいませんけど、タラバ蟹を持って来てくだすったあなた様は?」
 男は言った。
「浅川だよ」
 ユリはタラバ蟹鍋をつつきながら言った。
「浅川さんとは、どちらの浅川さん?」
「博光丸の監督、浅川だ」
 ユリはしつこく聞いた。
「博光丸とはどこかの外国航路船ですか?」
「違う。蟹を獲って船中で蟹缶に加工する、蟹工船の博光丸だ」
「蟹工船? と言いますと、もしかしてあの有名な蟹工船ですか?」
「そうだ。蟹工船・博光丸の監督、浅川だ。オレはこのたび小説『蟹工船』出版に際し、内容についてはみんな知ってると思うが、だからこそどうしても一言っておきたい。そのためにやってきたと、さような訳だ」
 ユリは言った。
「思い出しましたわ。蟹工船・博光丸の浅川監督さんね。読んでませんけど、聞いたことあります。ものすごく悪い奴でしょう、浅川って」
 浅川は手を振って否定した。
「だから、簡単に言うと蟹工船という作品は監督・浅川を悪く描いている。そりゃあ、漁夫とぶつかることもあったさ。でも浅川が漁夫や労働者の敵なわけではない。そこははっきり言っておく。浅川は労働者の敵ではない。しかし作家先生は監督・浅川を真敵と描き出すことによって作品を締めている。それはあまりにひどいので抗議いたそうと、そういうわけでこの文学館にやって来たってわけ」
 ユリは『蟹工船』のページを開いた。しばらく読み進むとユリは目をしかめ、首を傾げた。たまに本から目を離すと少し上を見上げた。ため息をついたり再び目をしかめたりした。
「『蟹工船』て、脚本? ルポルタージュ? それとも小説なんでしょうか」
「そりゃ、小説だろ。小説『蟹工船』として本屋に並んでるぞ」 
 ユリは首を傾げた。
「小説ねえ…。あまり小説に見えないんです」
「そうかい、どのへんが?」
 ユリが『蟹工船』を何ページかめくった。
「小説なら、ストーリーが必要でしょう。小説には大事な、ストーリーとストーリーの展開というものが必要ですが『蟹工船』にはそれが見当たりません。ですから『蟹工船』は、北海の海で働く蟹加工船の現場ルポ、のような感じがいたします。さらに第3章、カムチャッカに流された漁夫が現地のロシア人と身振り手振りで話すんです。それにいちいちト書きが記されています。『前のを繰り返して』とか『今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる』とか『年取った乞食のような恰好』とかいう具合いに。まるで脚本です。それから、漁夫たちは方言でしゃべるんですが、小説のセリフを方言で書くのは感心しません。方言というのはあくまでしゃべり言葉、しゃべって成立する言語です。書いてまで成立する言語ではありません。書き言葉は約束です。見た者がわからなければなりません。書き言葉に方言はないんです」
「なるほど、姐さん小説を批評できるんだ」
 ユリは続けた。
「1章なんか、導入部で大切なチャプターなんですが、誰が誰に言っているのかさっぱりわからないんです。さらに『蟹工船』は長編にありがちな、書くのにたいへん時間がかかってますから、文体とか筆致とかが途中で変わってしまっています。文体や筆致が逆に練れて来るんで、作品の前と後で違う人が書いたみたいになっちゃうんです」
「へえ…どこいらへん?」
「1章と最後の10章ではそれが違います。1章はなくてもいい、必要ないチャプターです。2章から少しづつ筆致はよくなっていきます。10章くらいですと筆致はだいぶん良いとおもいますが…」
「が? 他になにかあるの?」
 ユリはさらに続けた。
「8章くらいから、虐げられた漁夫たちがストライキ始めて船の管理者と闘って小説は終わるんですけど、この終盤のチャプターがこの作品の価値を大きく貶めましたね。要らなかったと思います。『蟹工船』は漁夫たちの辛さ苦しみを描く作品かと思いきや、結局はダンケツガンバローという労働者の団結を描いた陳腐な作品になってしまっているんです」
 浅川は言った。
「そうそう、そうなんだよ。漁夫たちがストライキと反乱起こすんだけど、オレもあれはどうも気に入らねえ。ストライキなんて起こしてもしょうがねえんだ」
「その割には浅川さん、拳銃振り回して暴れてますよね。一人くらい撃ち殺しそうな勢いでしたね」
「ねえさん、よく読んでるねえ」
「浅川さん、あなたの非人間性は繰り返し表されています。『人間の五、六匹なんでもないけれども、川崎がいたまし』と人間より船が大事と言ったり、『棒杭にしばりつけて置いて馬の後足で蹴けらせたり、裏庭で土佐犬に噛かみ殺させたり』と。ほんと酷いです」
 浅川は言った。
「だから、だから姐さん。『蟹工船』は監督・浅川を諸悪の根源みたいに貶める小説なんだよ。ほんとは違うんだよ。たかだか蟹加工の船の監督が諸悪の根源なわけがない。巨悪はもっと別にいる。巨悪は蟹工船なんかに乗っちゃいない」
「そりゃそうですわ」
 ユリは再びカニ鍋を温めた。
「浅川さん、どうぞお食べになって」
 浅川もカニ鍋を頬張りだした。
「うまいよ。ほんとのとこ博光丸の連中にも食わせたかったよ。ほんとだよ、ほんとにそう思ってる」
「付記にありましたよね。『俺ア今まで、畜生、だまされていた!』と浅川さんがおっしゃったと」
「そうだよ。浅川もだまされていた。上から売り上げや利益の追求を求められていたから素直にやっていただけで、経営者でも資本家でもない。浅川だって給料もらってる労働者だ。ようやく気が付いたよ。申し訳なかったと思うよ」
 ユリはアツアツの出汁を丼に注いだ。ああ美味いと浅川はため息をついた。
「実はさ、気になってることがあるんだ」
「なんでしょう」
 浅川は言った。
「新しい店子になる作家のことだけどさ」 
「『蟹工船』の作家先生のことですね、どうかしましたか?」
 浅川は言いにくそうであった。
「この下宿屋に部屋借りるっていうから浅川もやって来たんだけど、来ないだろ?」
「来ませんね」
「警察に捕まったかもしれねえ」
「警察に?」
「ああ、しかも特高だ。特高に連行されたんだ」
「特高に連行?」
 浅川はうなづいた。心配していたことが実際になった。浅川は口をへの字にして腕を組んで一息吐いた。
(了)



posted by 田畑稔 at 22:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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