2020年01月14日

「文学館4」作・田畑稔(no.0215.2020.01.23)

 下宿屋・文学館の賄い兼掃除を請け負っているユリは、毎日の献立に難儀していた。
 ユリは掃除や洗濯には大いなる自信を持っていたが、実のところ料理、炊事にはあまり自信はなかった。第一、毎日の献立を考えるのが面倒くさいし、そもそも文学館の店子は決して裕福な育ちどころか、むしろ貧しい出であるのに食には贅沢を言う。それも、かつて食べたことがあるから同様を所望するというのならまだわかるが、文学館の住人ときたら食ったことがないから食わせろという狂人ぶり。やはり貧乏はしたくない、貧乏は人の思考と行動を狂わせる。
 きょうユリはソバ打ちをしていた。ユリは、ソバを食べるなら良いがソバを打つというのは経験はなかった。ソバ打ちのおおよその推測はできているが、なにぶん経験のないことだから自信がない。しかしソバといえど何といえど、腹に入れば胃袋でこねられて砕かれてしまって終い。そう気にすることはないと、ユリの大胆さは意味なく将来を開いた。
 ソバ粉につなぎ粉8:2の比率で混ぜ合わせて水を加えながら押しつぶしていく。そして耳たぶの硬さになると丸めてソバ玉を作った。そこまでは順調だった。そして取り出したのは麺棒。麺棒によってソバ玉をのして次第に薄くしていく。
「のす時にもソバ粉を振りかけなきゃ」
 ソバ打ちの指導が入った。ユリはソバ粉を振りかけた。
「これくらいで、いいんですか?」
「均等にのさなんといかん。そう、麺棒にソバを絡めてのしていく。そうそう。麺棒の扱いがうまいじゃないか。経験あるの?」
 ユリは、ソバ打ちはきょうが初めてだと言った。
「いい麺棒じゃないか。まだ新しい。買ったばかりか?」
 ソバ打ちに一過言ある男が、麺棒やそば切り包丁を握って試していた。
「いい仕事をするにはいい道具を持たないとな」
 ユリは言った。
「ソバ打ちのご指導感謝いたします。ところでお坊様」
 ソバ打ちに一家言ある男は、姿を見ると僧らしかった。
「どなたでいらっしゃいますか?」
「私は禅智内供と申す。内道場供奉の職にある」
「ゼンチナイグ? ゼンチナイグというお名前でよろしいんでございますね」
 たいそう身分の高そうな僧である。なぜそんな偉い僧がここにいるのだろうか。そしてなにより僧が最も目を引くのは僧の顔、中でも鼻である。鼻がやたらと長いのだ。正確にいうと膨張した鼻が唇を過ぎ顎の下ほどまでも伸びている。そして鼻は赤らんでいて、ボツボツとイボなのか毛穴に詰まった垢なのか、とにかく鼻はイボが華やかに散らばっていた。
「禅智内供様、そのお鼻はいかがいたしましたか?」
 いつもながらユリは大胆に、怖いもの知らずだった。
「貴殿のようにはっきりズケズケと申す方は初めてだな」
 ユリは恐縮した。
「しかし、私が当下宿屋にやってきたのは、この鼻の相談である」
 ユリはハッと気づいた。
「もしかして。当下宿屋・文学館の店子でいらっしゃる作家先生の作品の登場人物でいらっしゃいますか?」
「しかして『鼻』の禅智内供にござる」
「当下宿屋・文学館の賄いと掃除を請け負っておりますユリと申します。お見知りおきを」 
 ユリはソバ切り包丁でソバを切っていた。ソバを打つところまではなんとか来た。だからあとは切ってさえしまえばソバ打ちはあらかた終わる。そう思っていたのだが、ソバ切りはけっこう難儀だった。幅をそろえるのが難しい。ユリは額に汗をかいた。
「包丁をヘソから伸ばした延長で構える。手で切っちゃいかん。体重をかけて押し切る」
 はい、とユリはその通りにした。
「最初はマッチ棒の幅で切る。マッチは目の前に置いておいた方がいいぞ。そうそう、本当に筋がいい」
 禅智内供はユリを褒めた。褒められたとユリは少し得意になった。
「禅智内供様、ソバ食べましょうか。先生はまだ帰ってこないし」
「食べてよろしいのか?」
「ええ、どうぞ。ご遠慮なく」
 ユリは禅智内供とともに作家の部屋に入り、折り畳み丸テーブルを開いた。そして出汁を入れて薄く切ったネギと練わさびを添えた。それだけでソバ独特の香ばしさが出て食欲を誘った。
「禅智内供様、ソバはいつ以来ですか。さあ食べましょう」
 ユリが、禅智内供にソバを食すよう促したが、禅智内供はもじもじしてなかなか手を出さなかった。
「ユリ殿、少し頼みたいことがある」
「なんでしょう」
「申し訳ないのだが、私が箸を持ってソバを口にやろうとしたら、私の鼻を割り箸で持ち上げていただけないか、とこういう考えに至っているのだ。重ねて申し訳ない」
 ユリは膝を打った。さっそく箸を持って禅智内供の鼻をつかみ上げた。
「こんな感じで、ようございますか?」
 うむ、その調子で頼むと禅智内供は言った。
「たいへん具合いは良い。ユリ殿は手さばきがよろしい」
 禅智内供は持ち上げてもらった鼻の下から開けた口に、思い切り出汁に浸したソバをすすった。その直後、禅智内供の口中は美味なるソバで満たされ、生まれてこの方ほとんどないくらいの幸せな顔をした。
「ソバの追加はよろしいございますか?」
 禅智内供は再び箸で鼻を持ち上げてもらって、ソバをずるずるとすすった。そして禅智内供は三度目にはソバ湯を飲んだ。禅智内供にとってこれほど美味しい膳を食したことはなかった。本当に夢心地になるほど、こんな幸せはなかった。
「ユリ殿。二度ならず三度まで手を煩わせていただき鼻を持ち上げていただいた。本当に感謝申し上げる」
 ユリははっきり言う女である。禅智内供の鼻は少々を超えて煩わしそうであった。
「禅智内供様。禅智内供様はいつからその長い鼻をお持ちなんですか」
「いつからと言われると、それは生まれたときからずっとである。ある一時期を除いて」
「ある一時期と申しますと?」
 禅智内供はいきさつを語った。禅智内供の長い鼻といえば知らない者はない。禅智内供はいつもは気にしていない風をしていてもやはり内心では煩わしかった。第一、ユリにそうしてもらったように食事のときに弟子に手を煩わせる。そして禅智内供は鼻によって自尊心が傷つけられた。簡単にいうと鼻のせいで嫁を迎えることができなかったのだと。だからなんとか鼻を普通サイズに縮められないのかと考えて烏瓜を煎じて飲んだり、ネズミのオシッコを鼻に擦り付けてみたが徒労に終わった。
 ところが、弟子が鼻を短くする方法を仕入れてきた。それは鼻を茹でてその鼻を人に踏ませるという方法だった。それをすぐに実践した。
「すぐに実践したんですね」
「うむ、実践いたした。鼻は短くなり申した」
「なったんですか! 短くなったんですね。でも今は…」
 禅智内供は話を続けた。いったんは鼻が短くなり、幸福な顔面を得たと思ったのだが、今度は鼻が長いのが当たり前だった禅智内供の鼻が短くなったことで、返って可笑しさが増したのだと言った。これを作家流に理由付けするなら、《もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる》。
「だから私は再び禅智内供の長い鼻、の獲得を目指した」
「それで、どうなったんでございますか?」
 禅智内供は斜め前の遠方を見つめた。
「まだ薄い朝日に九輪がまばゆく光っている時だった」
「まばゆく光っていた? それで?」
「私は息を吸いこんだ。ある感覚が再び私にに帰って来たのはこの時である。鼻が戻って来た」
 ユリは目を見開いた。
「戻ったんですね。ようございましたね。本当にようございました」
 ユリは涙ぐんで禅智内供を讃えたが、ふと気づいた。
「それで、禅智内供様はその慶事を先生に報告に来たと、こういうことでございますね?」
 禅智内供はぼりぼり頭を掻いて、言いにくいことなのだがと前置きした。
「実は先生にまた禅智内供の鼻を短く書いていただこうと、そう思って参った」
 ユリは着物の裾を畳み直して言った。
「禅智内供様。長かった鼻をいったん短くしたんですよね。辛いことも多かった長い鼻を短くして幸いと思ったのも束の間、慶事の人をまた不幸に陥れたいと思う人の心根が卑しいと、それで長い鼻を回復された。だがまた鼻を短くしたいと?」
「そのとおりである。そして以前試したように、鼻を湯がいて人の足で踏んでみるを繰り返したが鼻は短くならなかった。だからこれは先生に掌編小説《鼻》を書き直していただく以外にないと、こう思ってやって来たのだ」
 ユリは訝った。
「禅智内供様。いったん短くなった鼻をまた長く戻した。しかしその鼻をまた短くするのはなぜですか? また人を不幸に陥れたいという人の心根が貧しいとおっしゃったばかりではありませんか」
 禅智内供は頭をぼりぼり掻いて照れくさそうに言った。
「実は今度結婚することになった」
 ユリは目を最大限に見開いた。
「長い鼻で結婚などあきらめていた禅智内供だが、こんな私でもいいから嫁にしてほしいという女がいたんだ。しかしいくら嫁がこの鼻でもよいと言ってくれても食事のたびにいちいち鼻を嫁にめくらせては嫁に申し訳ない。それでこうして鼻を戻してくれるようお願いに来たのだ」
「お嫁さんて、お幾つの方でございます?」
 禅智内供はユリを手招きして耳を近づけろと言った。そして禅智内供はひそひそ声で言った。
「…そんなに若い方なんですか?」
 ユリは思わず口に手を当てた。少し呆れ顔で言った。
「それはそれは、何よりでございますね。…おめでうございます」
 後ろに人影があった。店子の作家だった。
「先生! お帰りなさいませ」
 作家はどっかと座り、ユリが勧める前にソバをずるずるとすすり出した。
「先生、ここにいらっしゃる方はご存じと思いますが禅智内供様でございます。先生にお話があると、たってのご所望でございます」
 作家はソバをすすり続けた。
「先生、禅智内供様は鼻を短くしてほしいとのことでございます。一度はできたのですが、また長くなった折には戻せなくなりました。これは先生に作品を改訂していただく以外にないと。と言いますのも…」
 ユリは口元に手を当てて、禅智内供をいたずらっぽい流し目で見た。
「禅智内供様ったらお嫁さんもらうんでございますよ。それもすっごい若い方…」
 ソバを食いつくして、顎を上げてソバ湯を飲み干した作家はすっくと立ちあがると、禅智内供の顔に手を伸ばし、長い鼻をつかみバリっという音とともに鼻を引きちぎった。
「先生!…」
 ユリは思わず叫んでしまった。禅智内供は鼻が根元からもげてしまい、わあっと叫び、顔を押さえて悶絶した。作家は何事もなかったのような涼しい顔をして部屋を出て行った。
(了)


 
posted by 田畑稔 at 22:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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