2020年01月13日

「文学館3」作・田畑稔(no.0213.2020.01.21)

 下宿屋・文学館の賄い兼掃除請負のユリは、今日は手料理に勤しんでいた。現在のところ一部屋のみであるが、夕刻には帰ってくるであろう店子のためにカツ丼を作る予定であった。そのためにはまずカツを揚げねばならない。なぜカツ丼を思いついたのかと言うと、通りかかった肉屋の店主に声を掛けられたからだ。
「文学館の賄いさんでしょ」
 ユリは文学館の賄いと掃除を請け負ってからまだ日は浅い。
「あたしを知ってるの?」
「もちろんだよ。文学館て有名な作家の先生がいるところだろ」
 商店街の店主といったら、とにかく地獄耳でなければ勤まらないというくらいだ。なおかつ肉屋の店主は商店会の幹事である。なおさらである。
「この間の『蟹』は評判取ってるじゃないの。さすが作家先生だ。それでも扱いが酷いと作品の出演者が抗議に来たのだが、先生は受け付けなかったどころか出演者の一人である『卵』を叩き割って白飯に落とし、卵かけご飯にして掻き込んだそうじゃないの。早くも大作家の風情を醸し出しているってところかな。商店会でも先生を応援しないとね」
 肉屋の店主ったら見てもいないのに、どうしてそんなことまで知っているのか。地獄耳に加えて千里眼も持っているのだろうか。ユリは背筋が寒くなった。
 店主はガラスショーケースを既に開けて、切りそろえた肉を見繕っていた。
「ちょうどいい豚ロースが入ったところだ。カツに揚げるとこれはまたちょうどよい肉、そして油加減がどうしようもなく美味いカツ丼に仕上げてくれるんだよ」
 店主は豚ロースを既に包み始めていた。おまけにカツ揚げるならラード油がいい、それしかないと。そしてこれも自家製パン粉にトンカツソース、卵に割り下。カツ丼を作るひとセットが買い物かごに放り込まれた。
「先生、作品が出来上がったらしいよ。名作ができたよ。今日はお祝いだ。辛子付けとくから」
 そういって肉屋の店主に分厚い豚ロースとトンカツセットを押し付けられた。断る間もなかった。ユリは肉代に少々後悔したが、ええい先生が新作を書き上げたお祝いだと、弾む足取りで文学館に帰った。そして台所でカツ丼の準備をしていた時だ。先生はご在宅ですかと文学館を訪ねて来た者がいた。
「犍陀多と申します」
「カンダタ? カンダタさんて、どこかで聞いたことがあるわね」
 犍陀多は、この度の先生の先品『蜘蛛の糸』の主人公であると名乗った。
「そうそう、先生そう言ってました。今度の作品は犍陀多という愚かな男が主人公だと」
 それでその愚かな犍陀多が何しに来たのかという問いに、犍陀多は答えた。実は筋書きが問題だと言った。悪事を働いて地獄でうごめいていた犍陀多だが、実は蜘蛛に情けをかけて蜘蛛を踏みつぶさずに助けたことがある。お釈迦様をそれを覚えていて犍陀多を助けてやろうと、地獄の血の池で悶えていた犍陀多の頭の上に蜘蛛の糸を垂らした。助けるためだ。犍陀多が蜘蛛の糸に気づいて上って行けば地獄から抜け出せる。案の定、犍陀多は蜘蛛の糸に気づき、上り始めた。
「そこまではお釈迦様の思う通り、犍陀多は蜘蛛の糸を登り始めました。そしてあの針の山すら下に見える高みまで到達し、これは地獄とお別れも近いと思われたとき、ここです。ここからが問題なのです」
 ユリは切々と訴える犍陀多の言に思わず引き込まれてしまった。
「問題と申しますと?」
 犍陀多はそこに作品がありますからご覧になってくださいと、原稿用紙を指した。大作家の雰囲気を醸し始めている作家の作品を勝手に手に取るのは申し訳ないと思いつつも、できれば作家になりたい、なれなくとも作家の近くで作品の一助になりたいと常日頃思っているユリは作品を手に取った。
「犍陀多さんは、蜘蛛の糸を登っていた。しかし気づいたら地獄の罪人どもが付いて上ってきた。その数何百何千。つまり犍陀多さんは蜘蛛の糸があまりに多い罪人の重さで切れてしまう、それじゃあせっかく上ってきた犍陀多さん自身も再び地獄の血の池に落下してしまいかねないと、こう心配したわけですね」
 犍陀多は答えた。
「はい、そうでございます」
「そこで犍陀多さんは叫んだ。こら、罪人ども、この蜘蛛の糸は己のものだぞ。下りろ。とこう叫んだのですね」
「はい、全くその通りでございます」
 ユリは言った。
「よろしいじゃございませんか。犍陀多さんが、お釈迦様の慈悲で蜘蛛の糸を垂らしてくれたのに、それをよじ登るだけでなく自分一人独占しようと言う、何度も何度も地獄の責め苦に遭ってもなお幸運を独り占めしようという厚顔。お釈迦様の教えをまだわからない犍陀多さんが再び地獄の血の池に真っ逆さま落ち込んだとて何の不思議がございましょう」
 犍陀多が、右手を振り上げてユリを制した。
「ですから、私はここにいるじゃありませんか。再び地獄の血の池に落ち込んだら、ここにはおりますまい」
 ユリは首を傾げて二つの目を天井に向けた。
「そういわれれば、そうですね。なぜいるんですか?」
 犍陀多は言った。
「ですから、蜘蛛の糸は切れなかったんです。私は、地獄の責め苦ですっかり改心し、お釈迦様のごとく慈悲を十二分に湛える真人間に生まれ変わりました。私は言っておりませぬ。罪人ども、己の糸だ、下りろ、などと全く申しておりませぬ。このままでは不肖犍陀多は不名誉のまま永劫地獄を彷徨うということになってしまいます。私にも親兄弟親族はおります。彼らの名誉のためにも、先生にそのように作品をご改訂いただきたいと、そう思ってやってきたのでございます」
 ユリは言った。
「なるほど。犍陀多さんは、すっかり改心して地獄からも脱出したし、たとえ犍陀多さんのように地獄の血の池に落ちた罪人であっても慈悲をもって救済にあたると、こういうことでございますね」
 犍陀多はそのとおりでございますと言うと、ユリは膝を叩いた。
「ようございます。私ごときが先生に意見を言うとは差し出がましいのでございますが、この際ぜひ先生には蜘蛛の糸のご改訂をお願いいたしましょう」
 そのとき、ジュウっと何かが弾ける音がした。いけない、とユリは台所に立ってコンロの火を消した。油を熱してトンカツを揚げようとしていたのだが、話に夢中になって天ぷら油を煮立たせてしまった。犍陀多は油の弾ける音を聞いて、罪人を油地獄に陥れるのかと青くなっていた。
「驚かせたかしら、ごめんなさいね。カツ丼作ろうと思ってただけです」
「カツ丼とはなんですか?」
「今作りますから、待っててくださいね」
 ユリは、揚がったカツを出刃包丁で1センチ幅に切り、そして親子鍋に割り下を入れ、カツを入れ溶き卵を散らばせた。
「カツはこのくらいに切るのがいいのよね。1センチに」
「なんだか、ものすごく美味そうです」
 作家が帰宅した。
「あ、先生。いまカツ丼作ってます。お持ちしますから、待っててください」
 作家は部屋に入るなり犍陀多を見た。犍陀多は誰なのか、すぐにわかったことだろう、何しろ自分の作品の主人公なのだから。しかし、作家の表情は変わらなかった。すぐに火を付けてタバコを吹かしだした。
「先生、お待ちどうさま。まず先生からね」
 ユリが盆にカツ丼を乗せてきた。食欲をそそる美味いニオイが部屋に充満した。
「さ、犍陀多さん。先生にお話ししたいことおありなんですよね」
「え?」
 犍陀多は、カツどんの甘くふよかな香りに魅せられて、自分は何をしにここに来たのかを忘れてしまっていた。カツ丼を食い終わった作家は、タバコ缶から両切りのタバコを取り出しマッチで火を付けた。また部屋は紫煙に満たされた。ちょうど窓から日が差し込んでいた。作家の理知的な顔が紫煙の向こうにあった。切れ長の目元、通った鼻筋、細い顎、掻きあげた長髪、何もかもが申し分ないくらいに美しくそろっていた。犍陀多にカツ丼を運んできたユリは思わず作家を見て固まってしまったほどだった。
 ふと気づいたユリが言った。
「犍陀多さん、先生にご改定を申し上げるんじゃなかったんでしたっけ?」
 だが犍陀多は、もじもじしているだけではっきりしない。ようするにカツ丼を食べたいのだ。それしか頭になかった。ユリが早く目の前にカツどんを置いてくれないかな。それだけを待っていた。
「先生、犍陀多さんのご進言は伺いました? どうしても申し上げたいことがあるんです。犍陀多さんも食事の前にぜひお話したいと」
 犍陀多は早くカツ丼を食いたい、早く目の前に置いてくれないかとそれしかなかった。目はカツ丼に釘付けになり、口元は今にも涎を垂らさんと半開き、腹は鳴った。
 カツ丼はようやく犍陀多の前に置かれた。待ちに待った。ところが犍陀多はカツ丼を取り上げたが、その丼の縁にネズミが飛び掛かってカツ丼に飛び込もうとしていた。ネズミだってよほど腹は減っていただろうし、よほどカツ丼を食いたかったに違いない。だが犍陀多はネズミを払った。そして畳に落下してまだカツ丼をあきらめていなかったネズミをつかみ上げて、部屋から放り出した。
「あら犍陀多さんたら、一口くらいネズミに食べさせてあげればいいのに」
 カツ丼は口元まで届いていたのだがふと、犍陀多の手からカツ丼は消えた。そして犍陀多は暗い暗い地獄の底、生臭い血が波打っている血の池に落下して行った。犍陀多は一言二言何かを叫んだようだったが、聞いていたものは鬼ばかりであった。鬼は待ち構え、研いでおいた出刃包丁で1センチずつ犍陀多の肉を刻んでいった。
(了)




posted by 田畑稔 at 16:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください