2019年11月14日

「ススキ野」作・田畑稔(no0146.2019.11.15)

 川面に街の明かりが映っていた。
 男は川面から街へ目を移した。花街は賑わっていた。男は橋を渡ろうとすると、女が反対方向からに進んできた。女はウグイス色の着物に髪は後ろでまとめ上げ、内股の脚で下駄を鳴らして歩いて来た。すれ違いざま軽く会釈をし、そのまま行ってしまうのかと思ったら声を掛けてきた。
「足元の…」
 男は振り返った。
「何か…」
「鼻緒が切れそうです」
 男は下駄を見ると確かに鼻緒が切れそうだった。女は男の足元にしゃがみこむとハンカチを引き裂いて丸めてこよりを作り、切れそうな鼻緒を継ぎ足してくれたのだ。
「ありがとう。申し訳ない」
 女は笑みを浮かべて橋を渡り消えた。男はしばらく町を堪能した。酒屋、料理屋、待合が並んでいて芸者の三味線の音、酔客の嬌声が町に響いていた。ここはなんという街だろう。男はこんな花街の存在を知らなかった。
 少し行くと柳を背にして女が立っていた。丸髷で白塗り、唇には紅を差した芸者風情。そしてキセルを逆手で構え煙を吹かした。男が近づくと芸者風情の女は言った。
「お兄さん、寄っていきなさいよ」
 男は言った。
「寄って行ったほうがいいのかい?」
 女は一度大きく煙を吐くと、柳の木の幹にキセルをぶつけ灰を落とした。
「当たり前じゃないか、何しに花街に来たんだい」
 男は、尻を押されるように店に入り、畳表も香しい和室に案内された。そこで、お待たせいたしましたと入ってきたのは、花街に入る橋の前で男の下駄の鼻緒を継いでくれた女だった。さっきと同様髪を後ろでまとめていた。薄化粧だったが色白なおいっそうで目元は涼やかだった。
「さっきはありがとうございまいした」
「あら、やっぱりあなただったんですか」
 女はお酒を注いだ。
「また会えるんじゃないかと思ってました」
 女が近づいたときに首元から香しいニオイが立ち上った。なんという良い香りだろう。
「そういえば着物が変わりましたね」
「ええ、こちらの茶色の万年筆を散りばめたような地味な色が店での着物なんです」
「でも似合ってます。色白の方だから暗い色でも似合うかな」
 女とは他に会話らしい会話はなかった。ただ女を見ているだけでよかった。実に幸せな時間だった。食事もおいしいし、注いでくれる酒はいくらでも入る気がした。
 男は路線バスを降りた。花街を昼間見てみたいと思ったからだ。たしか昨日降りたバス停あたりから探した。花街はなかった。一面深いススキ野だった。
「すいません、花街はこの辺りではありませんか?」
 男は通る人に尋ねたが、みな一様に知らないと言う。夕べ見たのは幻だったか、男は首を傾げた。夜になり、男は再びバス停に降り立った。明かりが見えた。橋があって、その橋から川の水面を見ると花街が映っていた。酒屋に料理屋に待合が並び芸者が行き来し、呼び込みが盛んだった。お兄さん、寄ってらっしゃいなと。
 男は勇んで出かけた。昨日入った料理屋だった。同じように芸者風情がキセルを吹かしていた。目が合うと、また来たなと言いたげにニヤッと笑みを返した。
 案内されると、店は何も言わずとも昨日の女を呼んでくれた。
「お声がけありがとうございます」
 女は、昨日よりもさらに美しく見えた。同様に暗めの柄の着物だったが、返って色白が目立った。
「そんなに見つめられても、恥ずかしいわ」
 そういわれても目を離すことができない美しい女だった。本当にこの世の人だろうかと思うくらいだった。
「歳はいくつですか」
 女は驚いたようにして、笑った。
「女に歳を聞くものじゃありませんよ」
「そりゃそうだね」
 男の脳裏には、この女と婚礼をした姿が一瞬浮かんだ。そして男は女の肩をつかんで引き寄せ、力づくで女の顔を引き寄せた。女は抵抗して男を突き放そうとした。
「いけません!」
 男は女の力が思いのほか強いので女を離した。すると女は、またいつもの穏やかな口調に戻って言った。
「花街の掟ですから」
 どこからか、火事だ!という声が上がった。料理屋にいた男の部屋の障子紙に赤い炎が立ち上がっているのが見えた。すると女は立ち上がって言った。
「ごめんなさい。火事は駆け付けなきゃいけないんです」
 女はすでに頬かむりをして着物にたすきを掛けて結んだ。
「ああそうかい…」
 男がそういう前に女は小走りで部屋を出て行った。男は障子を開けると火勢は強まっていた。見ると女が現場に駆けつけて男たちに交じって消化活動をしていた。しかも手押しのポンプだった。
「いまどき、手押しポンプとは…」
 男からすると時代ものである。どうしたんだろう、消防車は来ないのだろうかと訝った。だが男に交じって消火に汗する女の美しさにまた見とれて時を忘れてた。
 次の日の夜、男は昨日と同じルートをたどってきたのだが、料理屋はなかった。ただ深いススキに覆われた野があるだけだった。男はたまたま通りかかった老人に尋ねた。
「ここに花街はありませんでしたか?」
「花街? あるよ」
「あるんですか? どこにあるんですか、教えてください」
 急く男に老人は言った。
「あんたの目の前から消えたのかな? だったらもうないね」
「どういうことですか?」
「掟があるんだよ。その掟を破ったらもう現れない。ワシもね何十年前だったかなあ、ちょっと芸子さんの手を触ったばかりにねえ、それっきり花街は消えちゃった…」
 背の高いススキが幾本も風に揺れていた。
(了)
 

posted by 田畑稔 at 15:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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