2020年01月31日

「キラキラネーム」作・田畑稔(no.0229.2020.02.06)

 男は逃げるように帰宅した。とにかく人目を避けたかった。休日だと言っても外出をすることはなかった。それは日常だからである。慣れていると言えば慣れているのだが、それでもやはり苦痛だ。いつも悩んでいたし、いつも苦しんでいた。だから男は心労と疲労で太ったことがない。一度も太ったことのない人間と言う者は肥満に憧れるものである。男がそうだ。太った者には男でも女でも憧れる。ああ、ああやって腹を突き出して堂々と歩きたい、一度くらい太ってみたいものだと。男は慢性の胃炎、腸炎を抱えている。そもそも胃腸が快調だった試しがない。胃と腸の少なくともどちらかはいつも痛んでいる。出血もたびたびだ。胃痛と吐き気と悪寒、逆にむしろそれが通常であるくらいだ。
 男は長いことイジメの対象だった。イジメは男女無関係。むしろ女の方が多いと言えるかもしれない。女の方が元来残忍ではないだろうか、男はそう思った。とにかく徹底的にイジメられた。子供のころ、学生、社会人になってもイジメは徹底して続いた。本当に命を断とうと思ったことも一度や二度ではない。自分はなぜこんな目に遭わなければならないのか、自分をイジメた者だけではない。自分の運命さえ呪った。
「なんでイジメられるのかって? そんなの簡単じゃん。自分の胸に手を当てて聞いてみなよ」
 級友はあっけらかんとしていた。男が社会人になっても変わらなかった。行く先々でからかわれ、笑われ、蔑まれた。
「お前、そんなんでよく外歩けるよな。恥ずかしくないのか」
「おふくろさん、泣いてるよ」
 あからさまに言われることは常である。悲しいし、寂しいし、辛い。その日常である。本当に不幸の星の元に生まれたことを意識せざるをなかった。
「ちょっと、話していいかな」
 課長に呼び出された。
「直属の上司だから言うんだ。会社としてこれ以上言い続けることは辛いし、何より君が辛いと思うんだがね」
 課長の言いたいことは分かっていた。 
「君は入社試験の成績もトップだった。論理力もあるし、外国語だって堪能だ。このまま行けば会社の中枢に上り詰めることだって可能だ。君の未来は開けているんだ」
 課長は椅子に深く座り直した。 
「課長のおっしゃりたいことは分かっています」
 課長は言った。
「だから、君の未来は洋々たるんだ。ただ一点を除いて」
 やはりそうだった。ただ一点だか何だか知らないが結局、課長もオレを貶めるために言っている。結局そうなんだ。課長とか偉いひとであっても同じだ。オレを貶めて迫害して放逐したいのだ。もう見えている。
「どうかね、以前こうすればどうだろうかという改善策を提示したが、やる気は起こっただろうか」
 男は生返事だった。
「良い返事はもらえないのかな。この件に関しては、社の上層部も把握している。なんとか穏便に済ませられないかとの指示だった。もう一回だけ問いたい。どうだろう、改善策について考慮してみる気はないかね。これは社の上層部の意思でもあるんだけどね」
 男は言った。半泣きになって訴えた。
「変えなきゃだめですか? どうしても変えなきゃダメですか?」
 課長は重い表情でうなづいた。 
「どうしてもキラキラネームは変えなきゃダメなんですか? キラキラネームと言ったって死んだ父親が付けてくれた名前です。立派な名前です。何も恥ずかしいことなんかありません。オレは変えたくないんです。変えません。キラキラネームだって変えません。どうしてもダメだっていうなら、会社をクビにしてください!」
 男の抵抗は、さすがに肝が据わっていた。駅頭で拡声器を使って訴えた。
「私はキラキラネームです。みんなが最もバカにしているキラキラネームの男です。私は会社から改名するよう言われました。もし変えないと言うなら会社にいられないとまで言われました」
 最初はいなかったが少しづつ聴衆は増えていっていた。
「たとえキラキラネームだとしても、私は父親のつけてくれた名前に愛着があります。それを会社の都合で通常の名前に戻す、そうでなければ営業にも契約にもかかわる。だからといってそんなことを言われてキラキラネームが変えられますかっていうんです」
 実は私もキラキラネームだという者が男の演説を聞きに来ていた。男の演説にうんうんと相づちを打ちながら聞いていた。そして涙ぐんでは男の手を取り、強く握り締めた。僕も苦労しました、だからあなたの言葉はとてもよく理解できたと涙を流して男に抱き着いた。
 しかし現実はキラキラネームの所有者に辛かった。ある男はキラキラネームを告白したばっかりに、せっかく繁盛していたラーメン店は客が途絶え倒産した。ある医師は外科手術の予定が入っていたが、直前にキラキラネームを告白したばかりに日本では最初のチャンスであった新しい方式の心臓手術のスタッフから外され、以後全ての手術から外された。ある有名女性歌手が、自分の本名がキラキラネームであることをうっかり言ってしまったために、有名女性歌手は仕事を失った
「でも私は、キラキラネームを誇りに思います。唯一無二なんです。他にないもの、それがキラキラネームです。私は今いっそうキラキラネームを愛せるようになりました」
 弁護士がやって来た。人権弁護士だと称した。
「誰も人権をは守られなければなりません。お任せください」
 弁護士は体格も立派、身なり良く、雄弁でとても力のある人に見えた。
「お願いします。キラキラネームの所有者は皆苦しんでいます、助けてください」
 男は弁護士の手を強く握った。弁護士は、啓蒙活動すべきだ、人々の意識と知識を高めようといい、そのために少し費用がいるといって男から費用を受け取ったきりいなくなった。
 あたしたちも実はキラキラネームの所有者だと若い女性グループがやってきた。男の前に来てすぐに、自分たちはいかに心無い差別と出会い精神的苦痛、物理的攻撃に晒されたかを切々と訴えた。自分たちは少し離れたところでキラキラネームの所有者が相憐れんでいるから来てほしいと言った。男はそこへ行ったが、該当するものはなかった。戻ると悲惨なことが起こっていた。男のアパートで女の子たちが出前で大量の飲食をし、支払いを男回しにしたまま消えていた。
 女性が近づいて来た。同僚だった。
「いつも頑張ってるわね」
「それはどうも」
 男は目を合わせなかった。彼女からも冷たくされた過去があったからだ。
「あなたを辛い目に遭わせたかもしれない。申し訳ないと思うわ」
 女は続けた。
「あたしにも手伝わせてほしいの。キラキラネームの名誉回復のために」
「本当? そんなことしたら君の将来に傷がつくんじゃないの?」
「いいの、そんな将来のことなんか。そんなことよりあなたが闘っていることに共感するのよ。人は誰だって自分というものがある。それは名前であったり出自であったり。それに誇りを持つことから全てが始まる。その大切さがあたしにもわかったの。やらせて」
 男は感激した。いままでそんな優しくて逞しい言葉をもらったことはなかった。千人の援軍を得たに等しい。
「皆さん、名前は看板ではありません。本人そのものです。大切にされて当然です。気に入らないから改姓を迫るなどあってはなりません」 
 女の弁は立った。男よりずっと聴衆を引き寄せた。いいぞ、という掛け声すらかかった。
 老人がやってきた。老人は姓名判断を生業としているといった。
「キラキラネームには特徴があります。漢字の持つ読みを無視しているからキラキラネームになってしまうんです。キラキラネームとは漢字にあるのではなく、読みにあります」
「なるほど」
 男は納得した。
「じゃあ読み方を替えればいいんですね。青はアオ、赤はアカと読めばいいと、こういうことですね」
 街頭行動していた男と同じ会社の女性に人だかりができていた。女を支援するのかと思ったら少し違った。
「あなた、あなたでしょ、キラキラネームのあなたよね?」
 キラキラネームの男に支援にきた同僚の女が責め立てられていた。
「あなた、キラキラネームだった。あたし覚えてる。いつも泣いてたわよね」
 なんだか雲行きが変わってきた。
「違う。あたしはキラキラネームじゃない。ただキラキラネームの人を支援に…」
「いいえ、あなたはキラキラネームだったはず。あたしよく覚えている」
 旧友が女に詰め寄った。理由は二つあった。キラキラネームであることと、自分はキラキラネームであることを隠し通名を使っていたこと、なぜそんな卑怯なことをするのかと吊るしあげた。
「ちょっとすいません」
 テレビカメラを担いだ男がきた。
「話題なんで取材にきました。女性は友達に吊るしあげられてるみたいですけど、キラキラネームなんですか、あなたそれを知っているんですか?」
 男は答えた。
「彼女がキラキラネームかどうかなんて知りません。そんなことが問題ではないでしょう。われわれはそもそもキラキラネーム所有者の人権のために活動しているんですから」
 カメラマンは言った。
「ですから、そもそもあなたはキラキラネームなんですか、そこをはっきりさせればいいだけでしょう」
 カメラマンは女性にマイクを向けたが、女性は口ごもって何も言わなかった。
「やめてください。おかしいでしょう。キラキラネームかどうかで彼女を責めるなんて」
「じゃあ、あなたは? キラキラネームの正当性を訴えているくらいだから、キラキラネームを言ってるんですね? なんて名前なんですか、教えてくださいよ。名誉あるキラキラネームなんでしょう?」
「え? 僕のキラキラネームを教えろっていうんですか?」
「ええ、さぞやものすごくキラキラしてるんでしょう? 教えてください」
 男のトーンは急に落ちた。それはちょっと…、と口ごもって黙ってしまった。
(了)





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2020年01月29日

「文学館6」作・田畑稔(no0233.2020.02.10)

 きょうユリは気合が入っていた。いつもに増して念入りに掃除をしようとしていた。雑巾や布巾も箒も普段はめったに新調することはないのだが、きょうは違った。下宿屋・文学館に文学界で知られた先生、いわば文学界のスターがやって来ることになっていた。だから気合が入っている。文学館に入る前に一度大きく呼吸をした。ユリは頬も紅潮し、先生に会えると心臓は高鳴っていた。
 先生はまだお若い。忙しいのだろう。まだいらっしゃっていないようだった。だったらその前にしっかり掃除しようと玄関に上がったところ、廊下の奥で着物にたすき掛けし頬かむりの老婦人がすでに雑巾がけをしていたのだ。
 ユリは慌てて廊下に上がり、老婦人と同じようにたすき掛けし、頬かむりし女将さん姿で掃除を開始した。老婦人は窓に床に、障子の桟にまで雑巾を掛けた。老婦人の掃除の丁寧さはユリも感心した。
「入念なお掃除です。素晴らしい」
 老婦人は笑顔でこたえた。
「雑巾洗ってきます、そうしたらお茶いれますね」
 ユリは戻ってくると熱い湯から番茶を入れた。
「清と申します」
 老婦人はきちんと座って両手をついた。
「キヨさんですね。あたくしは当下宿・文学館賄い兼掃除請負のユリと申します。どうぞお見知りおきを」
 ユリはいったん頭を上げたが、清がまだ頭を下げていたためユリは慌てて再度頭を下げた。
「清さん。聞いたことございますわ。どこで聞いたんだろう…」
 まずお茶でもいただきましょうと茶碗を両手で取り上げた。
「清さんは、きょうはどのようなご用向きでいらっしゃいましたか?」
 清は答えた。
「あたくし清は先生と血縁はございません。縁ありまして家の下女として雇われております。先生はまだお若い。私は先生が本当に小さなお子の時から面倒を見ております。そういう間がらでございます。先生は四国の中学校の教員として赴任いたしましたので先生と呼んでおりますが、先生がお若い時から私は坊ちゃんと呼んでおりますので、私にとってはいつまでも坊ちゃんです」
 ユリは驚いた。
「坊ちゃんとは、あの坊ちゃんでございますか? あの有名な。そして文学界の大スターの坊ちゃんの下女、清さんでいらっしゃるんですね。私としたことが、あの名作の準主役を忘れてしまうとは、本当に失礼いたしました。改めて清さんにご挨拶をいたします。ようこそいらっしゃいました」
 ユリにとっては思った以上の著名人が来た。畳が額を擦るまで十二分に頭を下げた。ユリは包みを出した。
「お食べください。越後の笹飴でございます」
 まあ、越後の笹飴でございますかと清は喜んだ。
「清さんの好物でございますよね。『坊ちゃん』に登場いたしますことで有名になり、越後の笹飴メーカーはいまだにこれを名物として販売いたしております」
 物音がしたのでユリは、坊ちゃんが来たかと勇んだ。だが違った。若い男。だが一癖ありそうな面構えをしている。はかりごとをする男とはこういうタイプを言う。
「お初にお目にかかります」
 赤シャツの男は意外と丁寧な物腰だった。
「お初でございます」
 ユリは既にこの人物が誰であるかを既に捉えていた。名作『坊ちゃん』著名な出演者である。坊ちゃんの登場を待っていたが、劣らずのスターの登場にユリは興奮した。
「わかりました、私。あなたが誰かすぐに了解いたしました。坊ちゃんの勤めております中学校の教頭、赤シャツ先生でいらっしゃいますよね。いいえ、言わずともけっこうでございます。まあ、名作『坊ちゃん』の坊ちゃんに次ぐスター、赤シャツ先生にご登場いただきこんな幸せはございません」
 下宿にはもう一人訪問者が来ていた。女だった。若くて背の高い美女。下宿屋・文学館賄い兼掃除請負のユリからしても十分美女だった。
「あら、気が付きませんで。どうぞお座りになってくださいと座布団を勧めた。
 赤シャツが言った。
「マドンナです。『坊ちゃん』登場人物の唯一の花、作品の後半に登場いたしますマドンナです」
「あの、マドンナさんですか。これはこれは。当下宿屋・文学館に来ていただき誠にありがとうございます」
 ユリは赤シャツにもマドンナにも越後の笹飴を勧めた。
「もう皆さんご存じと思いますが、こちら清さん。坊ちゃんの家の下女をやっていらっしゃいます。いうまでもないことではございますが」
 ユリも番茶をすすり越後の笹飴を食した。なんという心地よさだろう、下宿屋に勤めることになって本当によかったとユリは思った。賄いや掃除に多少の労苦はあるものの、なんといっても作家先生や登場人物に会うことができる。話をしたりいっしょに食べたりができる。麗しい時間だった。これで坊ちゃんが早くやって来てくれればいいのになとユリは思った。
「『ぼっちゃん』の登場人物といえば私が知ってるだけでも、さらにスターが多ございますね。山嵐、山嵐先生の担当教科は何でございましたっけ?」
 赤シャツは言った。
「数学です」
「そうそう、坊ちゃんと同じ数学でいらっしゃった。それから、うらなり先生…」
「英語です」
「教頭先生、いちいちありがとうございます。そして野だいこ先生…」
「画学ですね。ユリ殿はよく読んでいらっしゃいますな」
 ユリは勝ち誇ったように言った。
「そりゃもう、下宿屋・文学館賄い兼掃除請負のユリでございます。これでもかつては作家を目指したこともございます。たとえ作家になれなくともいつも作家のお傍で作家のお手伝いをしたいがモットーでございまして、小説と作品には少々うるそうございます。特に『坊ちゃん』でございましょう? 坊ちゃんに氷水を奢ったのが赤シャツ先生でございましょ…」
「いやそれは山嵐だな」
 ユリはキョトンとした。
「ですから、坊ちゃんが悪漢山嵐を退治せんと生卵はぶつける、殴る、さんざんにしてやったのは…」
「卵ぶつけられたのは野だいこです。坊ちゃんがさんざん殴ったのは山嵐ではなく私、赤シャツと野だいこです。私はなぐられた側です。いや、痛かった。まだ痛いんですよ」
「あら、そうでしたっけ。話がやや込み入ってまいりました。なにしろ『坊ちゃん』は同じ人物でもあだ名と名前が両方出てまいりますでしょ。ちょっと混乱することは確かでございます」
 ユリは目を天井に向けて考えた。
「まず、数学担当・山嵐先生は堀田先生」
 赤シャツはうなづいた。
「そして英語担当・うらなり先生は…」
「古賀先生」
「そうそう、そして画学担当・野だいこ先生は…」
「吉川だ」
 ユリは膝を打った。
「そうなんですよ、名前がたくさんあるものですから、ちょっと…そして、坊ちゃんの名前が出て来ないんですよね。これは『坊ちゃん』最大の謎といっていいかもしれません。坊ちゃんは最後まで名前を名乗りませんよね。なぜ名乗らないんでしょう」
 ユリは清を向いた。清はさあ…と明言はしなかった。
「清さんは坊ちゃんを小さい時からお世話していらっしゃったんですから、当然、お名前はご存じでいらっしゃいますよね」
 しかし清は、坊ちゃんとしかお呼びしたことがないと言った。
「え? つまり坊ちゃんを坊ちゃんとしか呼んだことがないから名前を存じないと…」
 清はすまなそうにうなづいた。赤シャツが言った。
「ですからねユリ殿。山嵐には堀田、うらなりには古賀、野だいこには吉川と実名がある。質屋の勘太郎、大工の兼公、肴屋には角という名があり職員会議の書記にさえ川村という名がある。それなのに、私、赤シャツには名前がないんです。名前がないのは主役の坊ちゃんだけじゃないんです。ここにいる、マドンナもそうです。美女麗しくとも名前がない。きょうは来ていませんが校長も名前がありません。坊ちゃんにタヌキと呼ばれているだけです。坊ちゃんは校長、教頭にあ名前を付けてくれていない。なんですかね、学校管理者に敵がい心を持っていらっしゃるんでしょうかね」
 敵がい心というものは感じたことがなかったなと、ユリは首はひねった。 
「ですから、坊ちゃんは恥ずかしいのか何なのか知りません。坊ちゃんは、元は旗本、旗本の元は清和源氏で、多田の満仲(タダノマンジュウ)の後裔だと出自はおっしゃっているが、そこまでしかおっしゃらない。おっしゃりたくないのないご自分はよろしいんですが、私、赤シャツとマドンナにちゃんとした名前をつけていただきたいんです」
 ユリはマドンナに向けて、やっぱりそうなのかと問うとそうだと答えた。
「それから今さらではありますが、『坊ちゃん』は作品全体通して、結局悪いのは教頭の赤シャツだとなっているんです」
 腕を組んで、ううむとユリは口を尖らせた。赤シャツは言った。
「そもそも事件の発端は、寄宿生たちが坊ちゃんの食事を盗み見して冷やかしの文面を見えるところに張ったり、バッタを寝床に放ったり、寄宿舎で大きな音をたてたりしたのは、赤シャツが寄宿生を扇動したから事件は起こったと読者は思っているんです」
「違うんですか?」
「違いますよ。どこにもそんな記述はありません。寄宿生たちが暴れた理由は、東京から来た若い先生にちょいといたずら心を起こしただけです。それなのに『坊ちゃん』は全ての謀の源泉は赤シャツであるみたいに表しています」
 ユリは言った。
「では赤シャツ先生と野だいこ先生が坊ちゃん先生を連れて釣りに行きましたよね。そこで堀田がとか、扇動してとか坊ちゃん先生に聞こえるようにおっしゃいましたよね、あれは?」
「あれは単に教員間の噂話ですよ。他意はありません」
「赤シャツ先生はマドンナと結婚を約束していたうらなり古賀先生からマドンナを奪ってしまわれましたね。あれはどうなんでしょう」
 この件は赤シャツはきっぱりと否定した。それこそ自由恋愛の故だと、そう言ってマドンナに了解を迫った。それでは結局うらなり古賀先生を宮崎に転出させて追い出してしまわれたとの問いに、赤シャツは再度言い切った。教員人事に関しては校長にある絶対的権限がそうさせると。
「そうなんですか。赤シャツ先生はそう悪党ではないと、こういうことですね」
 『坊ちゃん』は全国にあまねく知られており既に事遅しといえいるのかもしれないが、私、赤シャツは単なる悪党教員の汚名を晴らすべく生涯を賭して今日に至っていると言った。名誉回復のために『坊ちゃん』の改定を目指すという強い気持ちを吐露した。
「しかしあれでございますよ赤シャツ先生。『坊ちゃん』は悪の赤シャツを滅ぼす正義の坊ちゃんの闘争劇でも何でもないですよ」
 赤シャツは訝った。
「『坊ちゃん』とは、簡単にいえば坊ちゃんと清さんのとても清らかな、プラトニックなラブストーリーでございますよ。例えばですよ『清という下女が、泣きながらおやじに詫まって、ようやくおやじの怒りが解けた』と清さんに熱烈感謝でしょう。四国の中学校に赴任するときには『おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった』と結局坊ちゃんも泣きました。そして『教育もない身分もない婆さんだが、人間としてはすこぶる尊とい』と絶賛です。さらに『清はやっぱり善人だ。あんな気立のいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない』。極めつけは、坊ちゃん先生も清さんのお気持ちをよく知っていて『愛に溺れていたに違いない』ですよ。こんな激しい愛を交換をなさっているんですよ。もう、言ってる私のほうが恥ずかしくなっちゃいます、ねえ清さん」
 清は顔を真っ赤にして両手で覆ったが、耳も真っ赤であることがすくわかった。
 玄関で人が入って来た。とても急いでいるようなのだ。清が坊ちゃんと叫んだ。坊ちゃんだったのだ。
「坊ちゃん、坊ちゃん先生ですね。清さんがお待ちかねでした。あちらはご存じ赤シャツ先生とマドンナさんです、坊ちゃん先生に名前を付けていただきたいと…」
 坊ちゃんは忙しいのか部屋に入るなり番茶をひと息で飲んで出て行った。見ると坊ちゃんは機関士のような紺色の上下の制服で制帽はアゴヒモをかけ、まるで鉄道員だった。ユリが清を振り返ると、坊ちゃんは四国の中学の先生を辞めて街鉄の技師になっていると、そう嬉しそうに言った。
(了)




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2020年01月28日

「サザンカ」作・田畑稔(no.0228.2020.02.05)

 サザンカが塀を這うように枝を伸ばし、赤い花をいくつも付けていた。季節はちょうどサザンカの季節だった。サザンカに花がつくのは秋が深まり冬が近づいたころ。空気は澄み月はより明るく大きく輝く。そしてちょうどそのころ町にやって来る歌手がいる。歌手の頭髪はあらかた白かったから、中年かそれ以上。得意技というのか十八番なのかもしれないが、「サザンカの宿」という一曲のみを持ってレコード店を周った。さらに地元のFM局で歌ったり、どこの小さな町の夏祭りのステージでも上がった。ステージがなければ自分でビールケースに上がりラジカセでカラオケを流して歌う。他に歌はないのかと思う人もいるかもしれないが、男はただひたすら「サザンカの宿」しか歌わない。誰かからヤジをもらっても頑なだった。
 歌手がちょうどサザンカの季節になると、この町にやって来た。この町で「サザンカの宿」を歌うのは特別の理由があってのことだ。なんでも歌手になる以前、家具の会社で運送を担当していた。だからサザンカの季節なると、この町で働きながら歌を勉強していたことを思い出し初心に帰るのだと、そう言ってまた今年も現れた。
「歌手って、昔は有名だったんだってね」
「そうなの? 有名だったの?」
「有名だったらしいんだけど、知らないわよね。知ってた?」
「さあ…」
 歌手は果たして本物だろうかという疑いが生じた。「サザンカの宿」をかつて聴いたという人が現れ、歌手は本物だろうかと問いかけた。町の人は歌手は本物であると信じていたのが、「サザンカの宿」の歌手が本物ならあんなに色男じゃないとそう言った。
「なにしろ時間がたっているからねえ。本人も髪が白い。苦労したんじゃないのかな」
「では本物説を取るってことかな」
 町の人は物的証拠から攻めていった。
「ビデオとか、今の時代ならDVDとかはないんだろうか」
 そういう声に押されて、調べて見たのだが歌手が写っているものはなかった。「サザンカの宿」を学校で子供たちに聞かせてみよう、たくさんの耳に音楽を聴かせると意外なところで意外な反応が出るものだ。
「でも歌詞がねえ、『愛しても愛しても、あゝひとの妻』だからね、子供にはちょっとね」
「そうだね。不倫の歌だもんね」
「でもこの歌はヒットしたらしいよ。そのむかし」
 一方歌手はやっぱり本物ではないかという意見も根強かった。歌手の有名なエピソードに家具の運送をしていたことがあるのだが、歌手が街角でキャンペーンに使っていたビールケースを担ぎ上げたときの格好が決まっていたというのだ。
「やっぱり、相当担げるね」
「あれは、いい腰つきだった」
「これで決まりかな、本物の歌手だってことは」
 歌手は腰が低いことでも知られた。きっと家具屋で働いて腰使っていたからだろうとか、重い物を運んで辛抱した心根の良さがにじみ出ているともいわれた。
 噂が流れてきた。歌手が新作をレコーディングしたというのだ。
「最近見かけないと思ったら、そういうことだったんだ。忙しくなるね」
「でも出すんだったらレコードじゃなく、CDだよね」
 だが、新曲は聞こえてこなかった。CDは発売されたという話も伝わらなかった。
「CDじゃダメなんだよ。イナカの爺ちゃん婆ちゃんはラジカセとミュージックテープじゃなきゃダメなんだ」
「じゃミュージックテープで行こう」
 その後歌手は見かけなくなった。他の地でキャンペーンをしているという噂もあったが行方はわからなかった。
 だったら「サザンカの宿」を店頭で流しておけば歌手が戻ってくるのではないかとか、喫茶店で集中的に流すと言う話もあり、じゃあやってみようという話になった。しかしそもそも「サザンカの宿」のCDもミュージックテープを町の誰も持っていなかった。
「音源を誰も持ってなきゃしょうがないね」
「キャンペーンで販売していたような気がしてたけど、誰も買ってないんだね」
 年が明けて花が各所で売られていた。サザンカの品評会なのか、赤紫の花がいくつも開花していた。「サザンカの宿」の歌手は愛想を振りまいて、歌手は実はこちらが本業だと言われていた。だから10か月は「サザンカの宿」を歌い、2か月はサザンカの品評会と即売会を担当しているといわれた。
「歌手じゃない? ほら「サザンカの宿」の歌手だよ。客に愛想を振りまいてる」
「サザンカの品評会と販売会に来るのも仕事なんだね」
 だがあの歌手じゃないと、否定する声が上がった。
「違うなあれは。サザンカじゃない。似てるけど違う」
「サザンカじゃないって、じゃあ何なんだ」
「ツバキだよ」
「ツバキ?」
 ツバキはサザンカとよく似ている。ツバキとサザンカは同じ花で、開花時期が違うだけという人もいるくらいだ。
「じゃあ今は年明けだから…」
「ツバキだろうね」
 ツバキはサザンカと比べれば一回り大きい、色艶もいい。ツバキの品評会にいた男は「サザンカの宿」の歌手より一回り大きく、顔の艶もよく、よく笑った。飲みっぷりも食いっぷりも豪快だった。だから人気を集めた。ファンが集まってツバキの後援会ができたのだ。人々の目はサザンカから逸れた。もう「サザンカの宿」を聞きに来る者はほとんどなかった。ただツバキにしても、ファンの集いができるのはいいことだがツバキ自身は何もしなかった。一部のファンはキャーと嬌声を発してツバキを追いかけた。しかしそれはツバキが寄ってくるファンにひとしきりご馳走していたからだ。直にツバキの懐は尽きてご馳走できなくなりファンは去った。そもそも歌わないツバキに対して人々はすぐに興味を失った。
「ツバキは歌を歌わないの?」
「ちょっとは歌ったみたいだけど、さっぱりだよ。本人も知ってて、とても自分は歌なんか歌えないってわかってたんじゃないのかな。だからご馳走してた」
 薄いピンクを散りばめた着物の女が来ていた。髪は島田で長いかんざしを差し、素足の下駄をカランコロン鳴らしてやって来た。どこの美人かと町の人は目を見張った。
「どちらさま?」
 女はカンツバキを名乗った。
「カンツバキ? どうしてここに?」
 カンツバキと名のる女は、ツバキとサザンカの仲を取り持つためにやってきたのだといった。特にツバキは、理由はわからないがこのごろ荒んでしまい、よくサザンカに当たるようになった。サザンカが出て行ったのはそういうことだと言った。
「ツバキがサザンカをいじめたんだ」
「歌手がいなくなったのはそういうことか」
「それでカンツバキが仲を取り持つためにやってきたとはね。それもこんなきれいな女性だった」
 カンツバキが言うには、カンツバキは元来ツバキとサザンカの間にできた花だと。だからツバキとカンツバキの間に入って仲を取り持たなければならないのだと。
 演歌歌手のキャンペーンが始まっていた。
「あれはあの、カンツバキだよね」
「きれいだけど、歌は平凡だね」
「おれはやっぱり「サザンカの宿」だね。長年聴いているんだけど、なんかいいよね」
 遠くから「サザンカの宿」が聞こえてきた。
「歌手が帰って来たのか?」
「帰ってきたんだよ」
 だが人々が歌の聴こえるほうに耳を傾けたが歌手はいなかった。ツバキもカンツバキもいなかった。しかしツバキとカンツバキ、そしてサザンカも赤やピンクの花をいま満開と咲き誇っていた。
「ツバキとカンツバキとサザンカって同じ季節に咲くんだっけ?」
「今度ばかりは気持ちが一致したようだね」
 「サザンカの宿」の歌手を見たという人がいた。だが、それは後ろ姿だけだから確証はないのだがとも言った。またどこかの町でキャンペーンを張っているのではないかという噂もあったが大方は、歌手はもうこないだろう、歌はやめてしまったんだと言い合っていた。それはツバキやカンツバキとも和解が成立して今は幸せに暮らしているからだと、町の人はそう信じた。 
(了)



 
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