2019年12月31日

「文学館」作・田畑稔(no.0203.2020.01.11)

 商店街の裏手、板を乱暴に被せただけの汚水溝の脇を抜けていくと、文学館という名の妙に古い下宿屋があった。どのくらい以前からあるのかは不明だ。戦前か、大正時代かそれよりもっと前かもしれないが、とにかく古い。おそらくはたくさんの人がやって来ては去り、愛と憎しみと生死が交錯した、あるいは単に貧乏人の聖地となっただけの下宿屋だったのだろう。
 そして文学館の古さたるや外から見る以上であった。畳はケバ立ち壁の土は大半が剥がれ落ち、梁にチリが層をなして積もっていた。天井は何十年もススを払っていなかったことは歴然。女は天井を見上げてため息をついた。
 女は、下宿屋・文学館の賄いと掃除や清掃を仕事として紹介所からやって来た。女はずっとやってきた仕事だからと自信をもって臨んだが、下宿屋の古さと汚さには閉口した。今どき、これほど古びた下宿屋の店子になる人とはどんな人だろう、果たしているとは不思議だ。女はそう思った。
 男が帰ってきた。店子だ。襟元に垢がシミを作っている古い浴衣に、これもまた古くて汗臭い丹前を着て、長髪オールバックを肩に垂らしていた。しかし目鼻立ちはどちらかというと男前に分類してもいいだろうくらいであった。ただ表情に陰があるのが気になる。一言でいえば暗かった。ひょんなことで首をくくりかねない、そんな危険を感じさせる男だった。 
「初めまして。きょうから文学館の賄いと掃除をいたします、ユリと申します。よろしくお願いいたします」
 ユリは着物の裾をそろえて両手をついて頭を下げた。長髪の男は何も答えなかった。座り机に方肘ついて眉間にシワを寄せて、せわしなくタバコを吹かしていた。
「あの、作家の先生でいらっしゃると伺いましたが」
 作家と呼ばれた男はそれでも何も答えず、ユリに顔を向けるのでもなかった。ユリは出ようとしたとき、机の上に広げられた原稿用紙が目に入った。原稿用紙には表題が書かれてあったが、それだけだった。そして作家が渋い顔をしているところを見ると、考えあぐねているらしい。ストーリー展開に苦労しているようだった。
「先生、ちょっと目に入りましたが、走れメロスというお題でございますか? 間違ってたら申し訳ありません」
 気になることには積極的になるユリだった。作家はその時初めて女をチラと見て、またタバコを増やした。既に部屋はタバコの煙が充満し、窓が紫色に霞んだ。ユリは思わず手で煙を払った。
 ユリも文章を綴ることが好きだった。だから作家にとても興味がある。できれば自分も作家になりたかった。叶わないとしても作家の近くで仕事の一助になりたいとそう思っていたが、偶然にも作家に出会った。この偶然を大切にしたいとユリは勇んだ。
「走れメロスといいますと、ギリシャ神話が主体となるわけですか?」
 ユリは後ろに気配を感じた。どこから入って来たのか知らないが男がいた。尋ねると男は、メロスと名乗った。
「ちょうど、作品の表題と同じですね。ギリシャの方ですか?」
「そういうわけじゃないんだが」
 作家が、走れメロスを書き始めたと聞いたので、とにかく手伝おうとやって来たのだと言った。
「先生はね、筆があまり早くない。それでね」
 後ろには別の男が来ていた。名前はセリヌンティウスといい、やはり走れメロスの作品執筆の支援にやって来たのだと言った。
 作家の執筆は始まった。だが原稿用紙が1枚もいかないうちに止まってしまった。メロスやセリヌンティウスは心穏やかでなかった。
「走れメロスは、締め切りがあるんでしょうか」
 ユリの質問にメロスは答えた。
「そりゃありますよ。だから僕らもやきもきしているんです」
 ユリは、まどろっこしいと書きかけの原稿用紙をもぎとった。
「『処刑までに三日間の日限を与えてください』とメロスはその三日間に何をするかで悩んでるんですよね。王様に死刑執行を待たせるんだからよほどの理由が必要ですよね」
 メロスは言った。
「そこがこの作家のいい加減なところ。最初に考えておかなければならないことです」
 セリヌンティウスが言った。
「ここは王様に直に聞いたほうがいいんじゃないでしょうか」
 セリヌンティウスは背後の男を紹介した。男は暴君ディオニスと名乗った。ディオニスもまた作品の進捗を気にしてわざわざ下宿屋にやってきたのだ。ディオニスは、暴君は作家が勝手に付けた冠であって本当は心優しいのだと前置きして言った。
「王が処刑に猶予を与えるなら、自分のことでなく、他人の幸福を持ってこなければならないでしょうね」
 ユリが膝をたたいた。 
「じゃあ、妹の婚礼があるからはどうでしょう」
 作家はハタと止まった。君、それいいねとユリを指さした。
「『人殺し、生かしておけぬ』とか罵っておいて、妹が結婚するから三日間の猶予をくれというのもまた虫のいい話ではありますが」
 ユリの言葉にメロスやセリヌンティウスはうなづいた。作家は書き進めたがまた止まった。くわえタバコでひっくり返ってしまった。
「今度は何につかえてんのかしら」
 それは、メロスが暴君ディオニスに三日間の猶予をもらい、その保証として無二の親友セリヌンティウスを人質になってもらうというものだった。メロスが三日間で帰らなかったら殺されるかもしれないのに、人質になってくれる人などいるものか。人選を改めるか、ストーリーを変えたほうがいいという声が聞こえた。
「やりましょう。三日間でメロスが帰ることを信じます」
 セリヌンティウスが言いきった。男らしい潔い言葉だった。セリヌンティウス、かなりの人格者と見た。作家は助けられた。作家の安易なストーリー展開を断固拒否してもよいが、セリヌンティウスは作品の進捗を優先したのだ。そして作家によると、メロスは妹の婚礼が終わったのだから予定通りだと余裕を見せていたが、次々と障害が巻き起こる。まず川の氾濫、それを乗り越えたかと思うと山賊に襲われた。
「これが安易なんですよね」
 ユリの指摘はメロスやセリヌンティウス、ディオニスも同調した。メロスは困難を乗り越えて三日間で帰還するという筋書きなのはわかるが、濁流に飛び込んで理由もなく泳ぎ切るとなると、それは安易で不自然。
「山賊が現れると、こん棒を奪い取って山賊を打ち倒すんです」
「そんなに弱い山賊はいないよなあ」
 こんなに安易なストーリーでは、筆が進んでもしょうがない。
「これで最後まで進むのかな」
 言ったのはセリヌンティウスだった。
「やはりこのまますんなり進んではおかしいでしょうね。人生、試練がなければ」
「それが濁流や山賊ではなくて?」
「そうではなく、心の迷い、失敗、挫折、つまり葛藤が必要です」
 セリヌンティウスは葛藤とは何なのかを語った。メロスは、濁流を乗り越え山賊を打ち倒したあと、ガクッと膝を折り疲労で倒れるストーリーを追加する。しかしそれでは三日間で戻るという約束を果たせなくなる。友セリヌンティウスを失ってしまう。その苦しみつまり葛藤がなければならないとする。
「つまり、親友セリヌンティウスを死なせてしまうことの葛藤が表現されなければ、たんなる急いで走った競争の物語になってしまうということですね」
 筆にブレーキがかかった作家は、ただでさえ不機嫌な顔をいっそう険しくして灰皿に吸殻を積み重ねて行っていた。
「ここは、作品のヤマといってもいい主人公の葛藤が表現されねばならないところなんですが、たとえば『勇者に不似合いな不貞腐れた根性が心の隅に巣喰った』とか『愛と真実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい』とか、セリフが大げさで陳腐なんですよ」
 ユリの言葉に一同うなづいた。
「本当にそうです。陳腐以外の言葉が見つからない」
 すると陳腐と言われたのが不満なのか作家はプイと部屋を出て行ってしまった。
「出て行きましたよ」
「ネガティブなセリフは延々と綴られております」
「作家は何度も自殺を図ったとの噂もありますしね」
 見ると、作品は完成していた。なぐり書きで「了」を打っていたところを見ると、半ばやけくそだったのだろう。
「いちおう完成したようですが、みなさんはどう思います? この作品は」
 メロスの問いにユリは答えた。
「文章というか、スタイルとして古いですよ。明治の文豪ならこれでもいいかもしれませんが、けっこう取り留めのない乱雑な文章だと思うんです。最後は、二人は互いに頬を殴って泣きあうんですから、これはもう安っぽい青春ドラマ…」
「ストーリーも平板です。ヤマはいつか、場面転換はまだかと待ってても結局来ない。フィロストラトスというセリヌンティウスの弟子が出て来て、せっかくやる気が出て前進しようとしているメロスに、あんたはもう間に合わないからやめろという。それだけのために登場するんですけど、この人物必要でしょうか?」
「要らないわ。紙幅のムダってやつですね。あの作家らしい常にネガティブ思考から生み出された出演者なんでしょう」
 そのとき、セリヌンティウスが駆け込んできた。作家が自殺を図ったという。
「玉川上水に飛び込んだんですって?」
 セリヌンティウスが続けた。
「しかも愛人といっしょです」
「その愛人は?」
「亡くなりました。作家に付き合ったということのようです」
 言葉がなかった。しかし誰もが思っていたことは同じだった。あんな男に付き合わなくてもいいのにと。メロスは、この作品は後世どんな評価を受けるだろうかと一同に問うた。
「果たして、将来教科書に載るようにまでなるだろうか」
「そりゃないですよ。こんな作品が教科書に載るようなら学校自ら子供の文才を摘むようなものです」
 ユリが開き部屋となった文学館の掃除を始めていた時だった。こんど越してきた者だと、頭は良さそうだがさらに顔色は青白く、病的な目をした男がやって来た。
(了)




 
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「平家ガニ」作・田畑稔(no.0202.2020.01.10)

 先生は平家ガニと呼ばれた。
 もちろん、平家ガニの甲羅の模様のように怒った侍のような顔をしているからだ。先生は決して老人ではない。まだ若いのだが、顔が顔なだけに年寄りに見られがちである。中学一年のクラス担任として登壇したときは思わず父母から、こんなお爺ちゃんがと言われたくらいであるが決してそうではなかった。
「自分は教師になる以前、中学生の時に既に平家ガニと呼ばれておりました。この学校でももちろん平家ガニでけっこうです」
 先生はそういって生徒や父母から笑いを取ったのだ。
「先生は、カニの研究するために理科の先生になったの?」 
 生徒の質問に先生は答えた。
「そう。こういう顔じゃなくもっと美男子だったらアイドルタレントを目指していた」
 先生がアイドルになれるわけがないと生徒たちは言った。それでも先生はあまりに真顔だったものだから、生徒たちはいっそう沸いた。
 先生は平家ガニを独自に研究している。平家ガニに関する研究論文もある。水産学部のある地元の大学でも、平家ガニの先生として知られていた。その研究のために先生は結婚しなかったと言われた。いや、あの顔がそうさせたと否定的な意見もあったが、先生は自分の顔こそ天職を導いたと誇った。
 先生は写真を何枚も出して言った。
「平家ガニは食用にはならない」
「まずいの?」
「うまいまずいより、顔が怖いんだなきっと」
「先生、平家ガニは甲羅が顔なの?」
 先生は少し手が止まった。
「甲羅が顔ってわけじゃない。カニだから顔は前にある」
「甲羅が怖いよね」
「平家ガニの甲羅に、滅亡した平家の怨念が移ったものといわれている」
 生徒が質問した。
「じゃ先生、平家が滅亡する前は平家ガニはいなかったの?」
 中学生といえど、なかなか鋭い質問をする。
「まあ、それはさだかではない。そのころのカニがどうだったか記録がないからな」
 生徒の一人が、父親が捕って来たと平家ガニを持ってきた。しかもただの平家ガニじゃない、面白いから先生に見せたいのだと言った。
「平家ガニの顔が変わる?」
「そうです。じっと見ていると平家ガニの顔が変わるんです。泣いているんじゃないかというくらい」
 平家ガニの顔といっても前方に突き出した二つの目、そして口もありモノを食う。平家ガニの顔は甲羅の模様であるが、この甲羅の模様が勝手に変化する。口角が開き、口が動く。まるで平家ガニが泣いているみたいだった。
「この平家ガニ、貸してくれないか? 持って帰ってじっくり観察してみたいんだ」
 持って帰って観察すると、平家ガニはもっと特異なカニであることがわかった。平家ガニの顔は夜になるともっと頻繁に変わる。平家ガニは本当に泣いているように見えた。かなりな気味悪さ。先生でなければ卒倒するかもしれないほどだ。平家ガニが泣いているのはなぜなのか、本当に滅亡した平家の怨霊なのか。先生は長時間観察し、平家ガニを見続けた。
「先生、平家ガニは元気?」
 平家ガニを持参した生徒は言った。
「ああ、元気だよ」
「なぜ泣くか、わかった?」
「それはまだわからないんだ」
 生徒は聞いた。
「平家ガニって、皮を脱ぐんでしょ?」
「脱皮な。カニだから定期的に皮を脱ぐ」
「脱いだ?」
「それはまだだな。満月の晩だな」
「満月の晩?」
「昔からよく、カニは満月の晩に脱皮すると言うんだよ」
 先生が倒れた。教室で気を失った、それも泡を吹いて。しかし養護教諭が駆け付けて保健室に運び込まれたころには意識も取り戻し、真っ青だった顔色も戻った。
「テンカンじゃないかって、養護の先生が言ってた」
 先生は回復した。
「先生、泡吹いたのか?」
「吹いたよ、たっくさん。カニみたいに」
 先生はなぜ失神したのかはわからないが、なんとなく幽霊を見たような気がした。泡が浮かんではじける中、幽霊が現れてそして気を失った。先生はさらに異変を感じていた。腕の皮膚がゴワゴワと膨らみだしたのだ。皮膚病だろうか。何も痛みはないがこんなことは経験がないため、皮膚科を受診した。
「皮が肉から浮いてますね。このままいくと剥がれるかもしれません」
「どうすればいいんでしょう」
「炎症止め軟膏でも出しておきましょう」
 先生の家に、幽霊がいた。フードのついた長いコートを纏った侍だった。何も言わなかったが、ただ恨めしそうな目を向けていた。
「平家のお侍ですか?」
 そんなことが頭をよぎったからだ。幽霊は消えた。
「先生、このごろ元気ないですよ」
「顔色悪いよね」
 そのはずだった。先生の皮膚のごわごわは進んでいた。皮はすっぽりと全身から剥がれてくるみたいだった。いつの間にか先生は学校を休んでいた。
「先生休んでるんだよな」
「皮膚病らしいよ」
「大丈夫かな」
 生徒たちは首を傾げた。では行ってみようと先生の様子を探りに行った。先生のアパートに入った。鍵がかかっていなかったが窓はカーテンがかけられ、明かりもついていなかった。
「先生いますか」
「先生、オレたち来ました」
 部屋には誰もいなかった。だが水槽があってポンプだけは稼働していた。そしてその水槽は以前と異なり、二匹の平家ガニが入っていた。生徒から借りた平家ガニはそのままだが、生徒から借りた平家ガニの倍ほどもある平家ガニが水槽の中、悠々座っていた。そして甲羅の顔が泣いているように悲しい顔で口を開けたり閉じたりしていた。
「平家ガニ、増えてる。しかも大きい」
「新しい平家ガニ、先生に似てない?」
 生徒たちが会話した。
「オレもそう思ってたんだ」
 先生の部屋には、もし人間が脱皮したらこんなふうな皮が残るだろうという遺失物が放置されていた。大きなカニが泡を吹き始めた。ブクブクと泡は勢いは増した。その時泡の向こうに何人もの人が現れた。長いフードを被った侍だった。現れても何も言わず何もせず、ただ恨めしい目を向けていた。だがその目は明らかに人を見下していた。
 その時、中空に浮かんでいた侍のざわめきだした。すると水槽のカニ、大きいカニも小さいカニもざわざわと騒ぎだした。落ち着かないのだ。何事かと生徒たちは水槽に近づくと霊は消え、カニは二匹とも大いに焦って水槽を出ようとさえしたのだ。
「どうしたんだ?」
「何かを怖がって逃げようとしてる」
「何を怖がってるんだ?」
 生徒たちはわからなかった。なにもしていないのに、生徒たちをバカにしたように泡をふいていた平家ガニが急に慌てだしたのだ。
「おまえ何かしたか?」
「なにも…」
 生徒たちは気づかなかった。一人の生徒が理科の授業に使うための虫かごを抱えていた。虫かごには源氏ボタルが一匹入っていた。
(了)






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2019年12月30日

「クリーニング工場」作・田畑稔(no.0201.2020.01.09)

 クリーニング工場が稼働していた。
 クリーニング工場としては小ぶりで古いがその分、ベテランの職員が多く配置されていた。クリーニング工場はどうしても女性が多くなりがち。しかしこの工場は大きなもめ事もなく、みな譲り合って仕事を続けた。職場では当然のことながら大型の洗濯機、乾燥機がうなりを上げている。だが工場が終わると洗濯機も乾燥機も止まり明かりも消される。眠りに入ったごとくしんと静まり返る。その落差が大きいのがクリーニング工場だ。
 クリーニング工場は夜も洗濯をするのかと問い合わせがあった。ときどき夜、クリーニング工場で大型洗濯機が真夜中に稼働している、騒音が気になると。真夜中にクリーニングするスケジュールは一切組んでいなかった。工場としては心当たりがない。工場長は女性職員に聞いた。
「内緒で洗濯をしている人がいるんじゃないか?」
 女性職員は首を傾げた。
「夜に洗濯機回す人なんかいませんよ」
「ただ音を聞いたっていう人がいるんだよ」
「洗濯機を見ても、誰かが洗濯をした形跡はないしね」
 ある夜、工場長から連絡があった。いま工場で大型洗濯機が稼働している音がする、近くの職員が見に行ってほしいと言ってきた。女性職員たちが夜の工場に入った。ドアは鍵がかかっていたが開ける前から大型洗濯機の洗濯槽が回転している音が聞こえていた。職員は工場の明かりを点灯させた。パチパチと蛍光灯の列が点灯していった。洗濯機が停止した。そして、人影がすうっと職員たちの前から消えた。
「いま、誰か向こうにいかなかった?」
「見えた、誰かは分からないけど、向こうに行った」
 行ったと言われた先には、ただ壁があっただけだった。誰かが通って行ったような気がしたが、何も痕跡は残っていなかった。
「何もないわね」
「夢でも見たのかしら」
 女性たちが、何もないから帰ろう、夜も遅いしと言った時だった。洗濯機の中に洗い残しがあったのだ。
「これ、忘れ物?」
 それは古くよれよれに傷んだ浴衣であった。
「これ何かしら」
 古い浴衣に大きなシミがあった。洗濯を終えて乾燥も終わった浴衣なので、明確にはわからなかった。
「これ、血じゃない?」
「血かしらね」
「血だとしたら、かなり大きな出血よ」
 大きなケガをして出血をした人が着ていたような浴衣だった。これで通常の工場の忘れ物ではないということがわかった。通常であれば大量の血液で汚れた衣類は他の洗濯ものとは別にして、シミ取りをしたうえで洗濯機を回すからだ。
「しかもこの浴衣、生地も古くて傷んでいるしデザインも今風じゃない。いつ買ったものかしらね」
 職員たちは考えた。使い古しとはいえ、洗い残した浴衣を置いておくと、気づいたら必ず取りに来るだろうということだった。夜、工場の稼働が終わると、様子を見続けていた。
「浴衣は、染み抜きしたの?」
「したわよ。きれいでしょ?」
 夜、工場の照明が消えると、古い浴衣を止まっている洗濯機に入れておいて様子を見続けた。ある時女性が現れた。どこから現れたのかわからなかった。顔も見えなかったが看護師であることはわかった。全身が白かったこととナースキャップが頭に載せられていたからだ。
 看護師は一抱えの洗濯ものを大型洗濯機のドアを開けて洗濯物を放り込みむと、ボタンを押した。洗濯機が回り始めた。そのとき職員は、以前に見つかった古い浴衣のように洗濯物が血で汚れていたのが見えた。
「また血染め?」
「どこから持ってくる洗濯ものかしら。あたしたちに渡してくれればきれいに染み抜きしてやるのに」
「そもそも、あの人はどこからきたの?」
 職員は、真夜中の工場で侵入した看護師を追いかけた。看護師の後を付いていくと、工場の通路が奥へ続いた。工場の建物にそんな通路はないはずだった。だが大型洗濯機の後方を行くと、そのまま通路が続いていた。
「こんな通路あった?」
「知らないわ。初めて見た」
 通路は、見慣れない非常に古い建物の中に続いていた。明かりも少なく、ところどころに弱い裸の白熱灯が下げられていた。そこはときどき看護師が歩き、浴衣を着た病気かあるいはケガ人のように弱った人が歩いてた。
「ここ、病院?」
「工場の隣、病院だった?」
「血染めの浴衣や洗濯ものは、この病院から持ち込まれたのかしら」
「そのようね」
 通路は大部屋に続いていた。工場の職員たちは息をのんだ。そこには大勢の、包帯やカーゼに包まれた夥しい出血の傷を持つ患者がうめいていた。
「ちょっと、ケガしてない無事の人なら、突っ立ってないで手伝ってよ」
 ナースキャップを被っていた看護師が怒った。職員たちは看護師の指示を受けた。脱いだ浴衣や剥がしたシーツを束ね、洗濯機で洗った。
「洗濯なら手伝うわ。他にできないから」
「あの血みどろの患者さんて、どうしたのかしら」
 看護師が、この洗濯もお願いと言ってまた放ったものも血まみれだった。
「あの…」
「なあに?」
 職員は言った。
「ひどいケガの人が多いようですが、いったい何があったんですか」
 看護師は腰に両手を当てて言った。
「あなた何言ってんの? 空襲されたんだから、これくらいなるわよ。洗濯頑張ってね」 
 空襲とはなんなのか、戦争が起こったのか。言葉は知っていても職員は戦争も空襲も何も知らない。しかし病院の様子を見ていたら、戦争とはこういうものかと思った。
 ケガ人が数多く苦しむ病室で怒声が飛んだ。軍人のようであった。軍人は大広間の患者を周り、乱暴な汚い言葉を浴びせていた。少々のケガで寝てる暇はないんだ、お国のために働こうという気はないのかと。
「そこの女。女、聞いてるか?」
 軍人は、職員を指した。
「軍の人員不足は深刻だ。女にも働いてもらわねばならない。女、聞いてるか?」 
 職員は答えた。
「あたしたち、クリーニング屋ですから、クリーニングしかできません」
 もう一人の女性は困った。
「ねえ、もう帰ろうよ。こんなとこあたしたちのいるところじゃないし」
 職員は合意した。元の工場に走った。看護師が追いかけてきた。
「待って。これお願い」
 汚れた浴衣やシーツを一抱え渡された。
「洗濯ならいいわ。やるわ」
 職員は血まみれの洗濯ものを大型洗濯機に入れた。
「水洗いだけじゃ、こんな血まみれの汚れは落ちないけどね」
 職員は言った。
「こんなになってまで何なのかしら、戦争って」
「かわいそうだけど、あたしたちではどうしようもない」
 職員は考えていた。もし自分なら、もっといい洗剤できれいにシミ抜きもできて、きれいなシーツに寝てもらえるのにと。
「あたし、行ってこようかな」
「どこへ?」
「あたしの技術を求められているところ」
「まさか、あなた」
 一人の職員は薄暗い通路に消えた。その後もときどき夜、大型洗濯機が回っていることが伝えられていたが、消えた職員の行方はわからず、いつしかその噂も消えて行った。
 その後しばらくして、クリーニング工場の社員研修で、ドライクリーニングと特殊溶剤を使った染み抜きは日本国内では当社が最初であると教えていた。
「そうだっけ?」
 若い職員が言った。
「あたしはそう教わりました」
「うちの会社が最初なのね、そうだったのね、そういうことだったのね」
 暗い通路の病院に消えた女性職員のことを思い出した。
(了)




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