2019年11月19日

「先輩」作・田畑稔(no.0153.2019.11.22)

 つい愚痴も出ようというもの。
 職場の先輩と後輩は話しをするとつい出てしまう言葉が、昔は良かった、昔はこんなもんじゃなかった、昔は寝ずに働いた、いまの若い連中は甘い。そう吠えたからといって自分たちの境遇が改善されるわけでもないのだ。年なのかもしれない、年なのだろう。出世も進歩も頭打ちになった人間が陥るワナだ。そうだワナなんだ。アリジゴクのワナ。つい不注意にも奈落に落ちる。そこはアリジゴクのワナだった。気付いた時には手遅れなのだ。
「それで先輩、祝福したんですか?」
 部下の中から抜擢があり、何段飛びかの栄典があった。
「もちろん。祝福したよ。もちろんだ」
 後輩は今夜も酒が進む。
「でもオレは落ち込んでますよ。なんであいつがって。先輩落ち込んでないすか、ほんとのとこ」
 先輩は何も答えなかった。そんなものだろうと、本心ではそうなのだ。それがわかるからこそ落ち込むのである。
「先輩もつい言っちゃうでしょ。昔はよかったって。年取ると誰もが陥るワナ」
「昔はよかったワナか。あるかもね」
 その先輩の上司になった部長に頼まれた。ある契約がこじれたから救ってほしいということだった。
「あいつがそんなこと言ってきたんですか? それこそ栄典した部長の仕事でしょう」
 先輩は答えなかった。
「先輩、それ受けたんですか?」
「お前は因縁があるだろうって」
 かつて契約した案件で、先方の支払いが滞った。先輩はその会社の傾きを救った。簡単にいえば仕事をとって来てやったのだ。先輩の会社が取ろうと思えば取れた仕事であったが、先輩の大きな心、大局を見る目が評価された案件だった。
「先輩が部長やればよかったんですよ。昔なら社員を実力で抜擢したもの。昔はよかった」
「だからそれがアリジゴクのワナだっていうの」
 社員の反応が変わった。こんどの仕事は報酬が出るらしい、ぜひやるべきだ。報酬はいくらだ、関心はそっちへ移動してしまった。先輩の手にする報酬はいくらか社内は持ちきりだった。
「10万ですか? それとも100万?」
 先輩はうんざりした。 
「報酬なんてあるわけないじゃないか。会社の通常の仕事だよ」 
「じゃ、報酬はなしですか?」
「当たり前だろ」
 契約は順調に進んだ。当初の思いとは異なって先方は、こちらの子会社になるか会社解散のうえ財産や社員を引き取って一つの会社にしてしまうかという、大きな決断を考えていた。実のところその会社は会社継続にもはや情熱をあまり持っていなかった。できればこちらの会社に引き取ってほしいという話だった。
 その会社は地元で起業してそこそこいい時期もあったのだが、経営者が高齢になり健康も優れなくなってしまったのが会社解散の第一の理由だった。その後始末をかつて倒産の危機の時に仕事を分けてもらい、結果的に売り上げまで分配してくれることに尽力してくれた先輩にこの仕事を任せた。
「先輩にこの仕事をさせたのは社長だったんですってね」
「オレも最近聞いたよ」
 その社長が健康を壊していることは社内ではよく知られたこと。そして栄典した部長は実は社長の甥っ子であることが明らかになって、栄典も身内だったからだとむしろ納得した。なんとなく上機嫌が続いていた妻が聞いた。
「社長さんに呼ばれて何て言ったの?」
 先輩は言った。
「社長は思ったより悪いみたいだ。あまり話せないで帰ってきたよ」
 先輩は、実は病床の社長が先輩を副社長にすると言ったこと、さらに、いずれ甥っ子を社長にするがお前に大番頭を期待していると言ったことを妻に言った。
「あなたに期待しているということよ。よかったわ」
「なにが良かったんだ?」
 妻は言った。
「正直言って、あなたの出世はここまでかなと思ってた。だとすると上はちゃんと見てないんじゃないかって思ってた」
 妻も夫の出世を少しは考えていたんだと、男は少し意外だった。
 社長が亡くなった。社員は皆社長の健康に関して知っていたから、驚きはなかった。それよりむしろ通夜から告別式、会社の内外に遅滞なく情報を伝えることは会社の実力を教える。ほぼ合格点ではなかったかと先輩は思った。
「先輩」
 声を掛けて来たのは何段か飛びで栄典した部長だった。
「お伝えしたいことがあります。
「なんですか?」
「実は、社長は後継をまだ決めてなかったんです」
 病気療養中の社長は後継をきちんと指名しなかったのだ。
「何も言ってなかったんですか?」
「いえ、いろいろな人に言ってはいたでしょうが、遺書も公正証書も作っていないんです」
「それは意外だったなあ」
「だから、実際何も決まっていないんです」
 部長は笑顔で言った。
「先輩は、社長に副社長をやってくれと言われてたんでしたか?」
「うん、まあ…」
 先輩は言葉を濁すと、部長は一気にまくしたてた。
「先輩が社長をやってくださいよ」
「ええ?」
 部長は続けた。
「社長はもともと先輩を買ってたし、この間の契約の件でも腕が立つのは確認されました。みんなが先輩を尊敬してます」
 部長が指した先に妻がいた。
「奥様に来ていただきました」 
 妻は、はにかみながらも誇らしげな顔をしていた。いまから会社の人事の変更と発表を行うと部長が発表した。たまたま今ここに全社員が集まっている、会社の意思決定機関として有効だ。そして先輩の代表取締役の決定が全社員の拍手を持って発表された。先輩は祝福を受けながらも、アリジゴクのワナではないだろうなと、頬をつねってみた。
(了)

posted by 田畑稔 at 20:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする