2019年11月03日

「古書店主」作・田畑稔(no.0134.2019.11.03)

 男は自他ともに認める本好きだ。
 とにかく1日1冊、年間365冊という大量の本を、自分の年間購入最低ラインとしているのだ。だから近隣の書店、古書店は全て行きつけである。店主や店員とも顔なじみ。そして、素晴らしい知識をお持ちですねと各方面から言われていることに自分でも少々得意になっている。しかしそれくらい自信がある。森羅万象が手に入りつつあるといえば大げさかもしれないが、ある。知識がある。
 悩みといえば、あまりの蔵書にアパートの床が軋み始めていることだった。階下の住人からミシッ、ミシッと聞こえると大家に訴えがあったと聞いたときは少々肝を冷やした。ある時部屋の床が抜けて大量の本がバラまかれる悪夢を想像した。幸いそこには至ってない。それとなく聞いた建具屋はそんなに簡単に床なんか抜けませんよと言ってくれたので、男は気を強くしている。
 男は古書店を見つけた。初めて見る古書店だった。中に入ると独特の古本のニオイがした。男にとっては心地よいニオイだ。この古書のニオイがあらゆるニオイの中で最も好きだった。ふと目を閉じたくなるような、男にとっては鼻腔をくすぐるニオイだった。
 そこは洋書店のようだった。それも古い洋書が中心にそろえられていることは棚を見ればわかった。だいたいが英語の本だった。だがタイトルを見ても意味がすぐには分からなかった。字体も違うしそもそも単語が違う。古英語の本だったのだ。男にとっては得意分野とは言いがたかった。
「何かお探しですか?」
 気が付くと古書店主らしき人物が傍に来ていた。
「…古英語ですか? なかなか読めませんね」
 男は、一冊の古書を手にとって頁をめくった。
「古英語がわかるだけでもたいしたものですよ。相当な知識をお持ちの方ですね」
 男は褒められて少し調子がよくなった。
「シェイクスピア本ですかね。これは古いですね」
 古書店主は言った。
「シェイクスピアは中期から新英語の時代です。そこにある本は本当の古英語。シェイクスピア以前ということになります」
 男は少し恥しくなった。シェイクスピア以前というなら、歴史でいうメイフラワー号の以前ということだろうか。それともコロンブスのアメリカ新大陸発見くらいまで遡るということだろうか。男は語学の歴史ということになると少々弱いのである。
「あの頃はつまり、ノルマンコンクエストの時代ですね」
「そうです。さすが博識でいらっしゃいます」
 男は、そのへんの時代で知っている言葉を並べてみただけ。なんとか逃げ切った、少しほっとした。
「このあたりに古英語本を並べている古書店があるとは、知りませんでした」
「外国人のお客様がいらっしゃいますので。他にはこういう書店はありませんから」
 男はさらに聞いた。
「こういう古書はどこから?」
「まあいろいろです。取次店もありますし個人から譲ってもらう場合もありますし」
 男は中でも古い本を開いた。
「この本なんかは古いですね」
「古いです。古いといっても活版印刷ですからグーテンベルク以降ということになりますね」
「そうそう、そうですね。グーテンベルクですね」
 グーテンベルクが出て来た。得意な分野ではなかった。また冷や汗だ。
 外国人のお客がやってきた。店主が寄り添って外国人客と話していた。どんな話をしているのかと男は耳をそばだてた。英語なら少し分かるのでひとこと聞いて店主に博識なところをみせてやろうと思ったが、全くわからなかったのだ。英語以外の言葉なら意味はわからないがそれは何語であるかくらいはわかる。だがいま会話している言葉はまったくわからない。降参だった。
「さっき話してたのは、どこの言葉ですか?」
 店に入って来た外国人が帰ったあとに、男は店主に尋ねた。
「ああ、あれですか。あれこそ古英語です。12世紀以前の」
 男は驚いた。
「じゃあさっきのお客は、古英語を話すんですか?」
 店主は笑みを浮かべた。
「古英語というのは時制がはっきりしていないんですってね」
 男はまたうろ覚えの知識をひけらかしたが、店主は黙っていたので男は間違ってたかと思い、話をそらした。
「イギリスは17世紀に文法改定したから、その前に移民したアメリカ人の英語のほうが古いんですってね」
 店主は依然として黙っているので男はよけいに焦ってしまった。
「そんなことより、少しお話があります。こちらへ来ていただけませんか」
 店主は男を招くと言った。
「実は、この古書店を引き継いでくれる人を探していたんですが、いました、あなたです。あなたは本の知識も豊富だし、なにより本が好きだということ、そのことがよくわかりました」
「いや、そういうこといきなり言われても…」
 男は大いに戸惑った。また外国人が入って来た。なぜ外国人と分かったかというと、その外国人はまるで中世の騎士のような鎧に覆われたいで立ちだったからである。男は目をこすった。寝ぼけているか、見間違いかと思ったからだ。店主はまたその中世の騎士の男と話している。古英語だろうか。笑って受け答えしている。店主はそもそもどこの国の人なのだろう。
「今も話していたんですが、あなたこそこの古書店に店主にふさわしいということになりました。ここに用意してあります、古書店の譲渡に関する書類です」
 男は言った。
「僕は古英語なんかわかりません」
「自然に話せるようになりますよ」
「なぜ仕事を放り投げてしまうんですか」
「まあ、もうのんびり気楽に生きたいと思ってるんですよ」
 男は口角から泡を飛ばすように言った。
「あなたはそもそもどこの国の人なんですか。それともいつの時代の人なんですか!」
「まあ心配なら、家庭教師置いていってもかまいませんが」
 店主が手招きすると、女性が現れた。金髪に青い目、色はきれいだが恐ろしく古い型のドレス。言うならばビクトリア美女である。古英語を話す古書店の店主にもなると彼女もビクトリア美女になるらしい。ビクトリア美女はその魅惑的なクチビルで微笑んだ。
 しばらくして男は古書店の店主に収まっていた。毎日本に囲まれ、本を取り扱うことが仕事にできて思った以上に楽しく、幸せだった。残念ながらビクトリア美女は一度も家庭教師に来ない。が、一方で古英語を話す中世の騎士も現れていない。
 そうしたら、古書店の前でちょっとした嬌声が聞こえた。中世の騎士とビクトリア美女が腕を組んだままやってきたのだ。古英語など未だに話せない男だが、ビクトリア美女がいるのだから問題はなかろうと、男は騎士とビクトリア美女を招き入れた。
(了)
 



posted by 田畑稔 at 11:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする