少年はすこぶる快活。足取りも軽やか。
「敵は幾万ありとても…」
下水となっている用水路に散らばる石の上をぴょんぴょん跳ねまわっている。
「…すべて…すべて何だっけ…」
いなかではあったが、いなかの誇る軍国少年であった。
だが周囲にはたくましい体躯の男子がいなく、ほとんど戦争に取られてしまい、だから本音を言い合えたものだ。
それによると戦況は芳しくなかった。噂では、敵は首都の近接をうかがうところまで迫っていると。
「敵は幾万ありとても、すべて…すべての次なんて読むんだっけ…」
だが軍国少年にとって未来は限りなく明るい。
用水路のトンネルは少年の隠れ家である。はい回るドブネズミでさえも秘密の合言葉で会話する。
その用水路から見かけない男の人がやってきた。
「やあ」
少年は自分の隠れ家に無断で侵入した人物に、不機嫌だった。
「君がケンちゃんだね。間に合ったようだ」
その男は言った。
「僕といっしょに来ないか。いやぜひ来てほしい。君を助けたいんだ」
少年は理解できなかった。少年はすこぶる健康である。
「この用水路のトンネルは、時々口を開けることで知られている。雨が少ない今がチャンスなんだ」
少年は意味がわからなかった。
「おじさんは?」
男は答えた。
「僕は君だよ。20年くらいたった君だ。このトンネルをくぐって出てきたものはたくさんいる。僕もそうだ。そうしないと死んじゃうよ」
「死んじゃうって?」
男は腰に手をかけて胸を張った。
「きょうは幾日?」
軍国少年は答えた。
「昭和20年3月9日」
「そうだったね」
男は少年に、早く来いと手を差し伸べてトンネルの奥へ導いた。
だが少年は動かなかった。
「どうしたんだ。もうすぐ戦争は終わるんだ、終わるんだよ。清々しい日がくるんだよ。見なよ、オリンピックだってやるんだぞ」
男はパンフレットを見せた。
「僕は清々しいよ」
少年はそう答えた。
男は焦れていた。
「トンネルが閉じるまでもう時間がない。早く!」
男はあとずさりしていたが向こう向きに走りだした。
少年の眼前から男は消えた。どこからか「ごはんだよ」と呼ぶ声がした。
母は少年が握っていた上質紙で印刷されたポスターを見た。
「東京オリンピック? 中止になったのよ。うんと先じゃない?」
少年は早めに床に就いた。夕日に染まった東京深川はまだ布団をしっかり被って寝入るのに相応しい寒さだった。
(了)