2020年01月21日

「文学館5」作・田畑稔(no.0221.2020.01.29)

 文学館に新しい店子がやってくるというのでユリは張り切っていた。現在の店子はただ一人。目鼻筋はきりりの既に大作家の貫禄を十分に見せる店子だが、やや暗い。人物としては難しい。文学館の掃除兼賄いのユリとしてはもっと作家と交わりたいところではあるのだが、作家先生はなかなか在宅されない。だから下宿屋・文学館の掃除兼賄いのユリとしては物足りなくて寂しい日々を送っていた。
 ところが、文学館に新しい店子が入ることとなった。文学館の店子なのだから当然作家である。だが作品はまだ読んでいない。ユリは今度やって来る作家を想像した。現在の店子のように男前だろうか。できれば清潔のほうがいい。ユリは、本当は不潔な男はたとえ作家であっても苦手だ。洗ってくれというのなら喜んで洗濯板を取り出す。あるいは学生服は着たきりの垢でテカテカに光り猛烈に臭い、そんな作家の卵だろうか。あれこれ思いを巡らせるのもユリは楽しかった。
 ユリが箒とちり取りを持って玄関に出てみると、見慣れない物があった。誰が持って来たのか知らないが、また何のために持って来たのかも知らないが、タラバ蟹の缶詰が数個玄関に積まれてあった。
「タラバ蟹なんて高級品、こんな貧乏下宿屋に合わないわ。でも食べたいわ」
 ユリは辺りに声をかけた。
「タラバ蟹缶を持って来たのは誰ですか? いないと食べちゃいますよ」
 ユリはタラバ蟹缶をどう食べれば最も美味いのかを考えていた。なにしろタラバ蟹缶、ほとんど食べたことがない、いや食べた記憶がない。食べてもいいんだろうか。でも食べたい。いったいこのタラバ蟹の缶詰は誰のものなのだ。ユリは苛立った。
「食べちゃいますよ。どなたもいらっしゃらないのなら食べちゃいますよー」
 ユリは再度、玄関から下宿屋の隅々まで通る声で言った。
「食っていいよ。そのために持って来たんだから」
 背中で突然声が聞こえたのでユリは驚いた。無骨そうな男だった。男は漁労の仕事をしているような強い魚のニオイを発していた。
「あ、ありがとうございます。じゃあ、食べます」
「いいよ食って食って」
 ではタラバ蟹缶詰をどう食べればいいのと聞くと男は、タラバ蟹鍋を勧めた。
「カニ鍋ね。そりゃあいいわ」
 ユリはさっそく鍋の用意を始めた。ネギ、白菜、白滝、シイタケ、そしてタラバ蟹。出汁は関東風にさっぱりとした醤油。
「こんな大きなタラバ蟹の切り身なんて、見たこともない」
 ユリは椀にユリと男の分のタラバ蟹鍋を盛った。出汁の風味が鼻腔に飛び込んだ。これほど食欲をくすぐる鍋もないだろう。ユリは勇んでタラバ蟹を一切れ口に入れた。ユリはあまりの美味さに思わず目をつぶった。
「タラバ蟹ってこういう味だったのね」
 しかし男は蟹鍋を食べなかった。食べないでユリの食事を見ていた。
「あ、いけない」
 ユリは膝を打った。
「すいませんけど、タラバ蟹を持って来てくだすったあなた様は?」
 男は言った。
「浅川だよ」
 ユリはタラバ蟹鍋をつつきながら言った。
「浅川さんとは、どちらの浅川さん?」
「博光丸の監督、浅川だ」
 ユリはしつこく聞いた。
「博光丸とはどこかの外国航路船ですか?」
「違う。蟹を獲って船中で蟹缶に加工する、蟹工船の博光丸だ」
「蟹工船? と言いますと、もしかしてあの有名な蟹工船ですか?」
「そうだ。蟹工船・博光丸の監督、浅川だ。オレはこのたび小説『蟹工船』出版に際し、内容についてはみんな知ってると思うが、だからこそどうしても一言っておきたい。そのためにやってきたと、さような訳だ」
 ユリは言った。
「思い出しましたわ。蟹工船・博光丸の浅川監督さんね。読んでませんけど、聞いたことあります。ものすごく悪い奴でしょう、浅川って」
 浅川は手を振って否定した。
「だから、簡単に言うと蟹工船という作品は監督・浅川を悪く描いている。そりゃあ、漁夫とぶつかることもあったさ。でも浅川が漁夫や労働者の敵なわけではない。そこははっきり言っておく。浅川は労働者の敵ではない。しかし作家先生は監督・浅川を真敵と描き出すことによって作品を締めている。それはあまりにひどいので抗議いたそうと、そういうわけでこの文学館にやって来たってわけ」
 ユリは『蟹工船』のページを開いた。しばらく読み進むとユリは目をしかめ、首を傾げた。たまに本から目を離すと少し上を見上げた。ため息をついたり再び目をしかめたりした。
「『蟹工船』て、脚本? ルポルタージュ? それとも小説なんでしょうか」
「そりゃ、小説だろ。小説『蟹工船』として本屋に並んでるぞ」 
 ユリは首を傾げた。
「小説ねえ…。あまり小説に見えないんです」
「そうかい、どのへんが?」
 ユリが『蟹工船』を何ページかめくった。
「小説なら、ストーリーが必要でしょう。小説には大事な、ストーリーとストーリーの展開というものが必要ですが『蟹工船』にはそれが見当たりません。ですから『蟹工船』は、北海の海で働く蟹加工船の現場ルポ、のような感じがいたします。さらに第3章、カムチャッカに流された漁夫が現地のロシア人と身振り手振りで話すんです。それにいちいちト書きが記されています。『前のを繰り返して』とか『今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる』とか『年取った乞食のような恰好』とかいう具合いに。まるで脚本です。それから、漁夫たちは方言でしゃべるんですが、小説のセリフを方言で書くのは感心しません。方言というのはあくまでしゃべり言葉、しゃべって成立する言語です。書いてまで成立する言語ではありません。書き言葉は約束です。見た者がわからなければなりません。書き言葉に方言はないんです」
「なるほど、姐さん小説を批評できるんだ」
 ユリは続けた。
「1章なんか、導入部で大切なチャプターなんですが、誰が誰に言っているのかさっぱりわからないんです。さらに『蟹工船』は長編にありがちな、書くのにたいへん時間がかかってますから、文体とか筆致とかが途中で変わってしまっています。文体や筆致が逆に練れて来るんで、作品の前と後で違う人が書いたみたいになっちゃうんです」
「へえ…どこいらへん?」
「1章と最後の10章ではそれが違います。1章はなくてもいい、必要ないチャプターです。2章から少しづつ筆致はよくなっていきます。10章くらいですと筆致はだいぶん良いとおもいますが…」
「が? 他になにかあるの?」
 ユリはさらに続けた。
「8章くらいから、虐げられた漁夫たちがストライキ始めて船の管理者と闘って小説は終わるんですけど、この終盤のチャプターがこの作品の価値を大きく貶めましたね。要らなかったと思います。『蟹工船』は漁夫たちの辛さ苦しみを描く作品かと思いきや、結局はダンケツガンバローという労働者の団結を描いた陳腐な作品になってしまっているんです」
 浅川は言った。
「そうそう、そうなんだよ。漁夫たちがストライキと反乱起こすんだけど、オレもあれはどうも気に入らねえ。ストライキなんて起こしてもしょうがねえんだ」
「その割には浅川さん、拳銃振り回して暴れてますよね。一人くらい撃ち殺しそうな勢いでしたね」
「ねえさん、よく読んでるねえ」
「浅川さん、あなたの非人間性は繰り返し表されています。『人間の五、六匹なんでもないけれども、川崎がいたまし』と人間より船が大事と言ったり、『棒杭にしばりつけて置いて馬の後足で蹴けらせたり、裏庭で土佐犬に噛かみ殺させたり』と。ほんと酷いです」
 浅川は言った。
「だから、だから姐さん。『蟹工船』は監督・浅川を諸悪の根源みたいに貶める小説なんだよ。ほんとは違うんだよ。たかだか蟹加工の船の監督が諸悪の根源なわけがない。巨悪はもっと別にいる。巨悪は蟹工船なんかに乗っちゃいない」
「そりゃそうですわ」
 ユリは再びカニ鍋を温めた。
「浅川さん、どうぞお食べになって」
 浅川もカニ鍋を頬張りだした。
「うまいよ。ほんとのとこ博光丸の連中にも食わせたかったよ。ほんとだよ、ほんとにそう思ってる」
「付記にありましたよね。『俺ア今まで、畜生、だまされていた!』と浅川さんがおっしゃったと」
「そうだよ。浅川もだまされていた。上から売り上げや利益の追求を求められていたから素直にやっていただけで、経営者でも資本家でもない。浅川だって給料もらってる労働者だ。ようやく気が付いたよ。申し訳なかったと思うよ」
 ユリはアツアツの出汁を丼に注いだ。ああ美味いと浅川はため息をついた。
「実はさ、気になってることがあるんだ」
「なんでしょう」
 浅川は言った。
「新しい店子になる作家のことだけどさ」 
「『蟹工船』の作家先生のことですね、どうかしましたか?」
 浅川は言いにくそうであった。
「この下宿屋に部屋借りるっていうから浅川もやって来たんだけど、来ないだろ?」
「来ませんね」
「警察に捕まったかもしれねえ」
「警察に?」
「ああ、しかも特高だ。特高に連行されたんだ」
「特高に連行?」
 浅川はうなづいた。心配していたことが実際になった。浅川は口をへの字にして腕を組んで一息吐いた。
(了)



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2020年01月20日

「流し」作・田畑稔(no.0220.2020.01.28)

 スズキは真っすぐ帰宅することができない。どうしても夜の町に飛び込んでしまう。道の両端に料亭や居酒屋が並ぶ、安っぽいバーやスナックも並んでいる。その窓や看板の明かり、外まで響く嬌声やカラオケの唸る声にどうしても引き寄せられてしまう。
 スズキが入った居酒屋は賑わっていた。空いている椅子はカウンターに一つしかなかった。なじみの店である、いちいち注文しなくともよい。ビールが一本、小皿のおかずが出てきた。スズキは騒音のような店でビールと小皿をチビチビやるのが好きだ。仕事の疲れから解放される。何よりであり、本当に幸せだ。
 居酒屋の戸が開き男が二人が入ってきた。一人は中年、もう一人は若かった。そして中年の男はギターを肩から下げていた。客でなかった。店はあらかじめ知っているようで、男たちに席を案内しなかった。男たちは客に近づき頭を下げ、拒絶されると次に移った。 
「流しの人?」 
 スズキは傍に来た二人の男に言った。
「はい、御所望の歌があればお願いいたします」
「じゃあ、GSやってくれる?」
 年齢的にそういう歌をリクエストしてしまう。流しはギターを鳴らし、昔のヒット曲をやってくれた。スズキはさらにリクエストした。流しは快く応じてくれた。
「いいねえ、ありがとう」
 スズキはおカネを払おうとしたが、男は代金は飲み代といっしょに店に払ってくれと言った。店が流しから手数料を引くためだ。
「流しって、復活してるんだね」
 流しの男が言った。
「われわれはずっとやってましたけど」
 スズキは上機嫌でいった。
「カラオケもいいけど、流しもいいよね」
「ええ、使ってくれる方は増えています」
 スズキが居酒屋を出て夜の町を歩いた。ハシゴしてしまった。けっこう飲んだ。体には良くないかもしれないが、いつものこと。やめられない。これでいいんだと、スズキは上機嫌で家路についた。
 繁華街の外れの小路に、さっき会った流しの男たちがいた。ああ、さっきの流しだとスズキはやり過ごそうとしたが、なんだか男たちは揉めている。流しの年長の男が若い男を叱責していた。それくらいはどこにもありそうなことに見えたのだが、流しの男は少々度が過ぎると思った。年長の男は若い男を殴った。若い男は吹っ飛んでしまった。それだけではない、年長の男は若い男を蹴る、踏みつける、また若い男を起こして思い切り殴るを繰り返した。若い男は鼻や口から血を出していた。
「そこまでやるの。それは叱責じゃない、暴力だ」
 スズキは止めに入ろうかと思ったが、若い男はそれでも体を起こし、年長の男に付いて帰っていった。
 翌日もスズキは居酒屋にいた。店は満員だった。客の嬌声と笑い声があふれ返っていた。スズキは相変わらずビールと小鉢でチビチビやっていたところに、玄関から入ってきたのは流しの男たち。スズキは昨日のことを思い出したからギョっとなってしまった。流しの男はスズキの顔を覚えていてスズキに会釈した。だがスズキは昨日の流しを見ているから、彼らのあまりの暴力さ加減にリクエストする気が引けたのだ。スズキは流しと目を合わさず彼らをやり過ごした。流しの男たちは少しのお客を相手にするといなくなった。
 スズキがほろ酔い加減で店を出た。すると流しの男たちがいた。スズキが出て来るのを待っていたようで、スズキに寄ってきた。
「お客さん」
 スズキは流しの男たちに会いたくなかった。恐ろしく不機嫌な顔をしていた。
「お客さん、昨日は大変失礼いたしました。こいつを絞めてたのを目撃されちゃったんですね。そのことで一つお話しておきたいことがあるんです」
「なんですか話って」
 流しの男は言った。
「普通の人から見ると、大層な絞め方に見えたかもしれません、酷い暴力に見えたかもしれません。でもあれは、われわれの世界では普通のこと。ほら見てください、なんでもないんです」
 流しの男は若い男を引っ張りだした。若い男は前に出ると笑顔をスズキに向けた。大けがしているかと思ったら、まるで無事だった。
「ケガしてないんですか?」
「なんでもありません。お騒がせして申し訳ありません」
 流しの男二人はスズキに深々と頭を下げた。 
「無事ならいいんだけどさ、いつも若い者をあんなふうにせっかんしてるの?」
 年長の男は頭を掻いた。
「まあ、いつもやってるんですけど、こいつらは大丈夫なんですよ。私もですけど。われわれは殴る蹴るに強いんです。なにしろ人じゃないもんで」
「人じゃない?」
「はい、私たちは人ではありません」
 スズキは聞いた。
「人じゃない?」
「はい、私たちは人じゃないんです。ですから死にません」
「人じゃなければ、なんなんですか?」
 流しの男は答えた。
「見た通りです。流しです」
「流しって、人じゃないんですか?」
「人じゃありません。流しという存在です。歌を歌うことが仕事です。それ以外のことはできない存在です」
 歌を歌うこと以外できない存在? それはなんなのか、意味がわからなかった。
「流しは死なないで、永久に生きているということですか?」
「わたしたち流しは、歌を歌うことだけが生きることです。歌を歌えなくなったら存在できなくなります」
 流しの男は言った。歌うことも運動の一つだから、鍛えるためにも歌を歌い続けていなければならないと言った。だから歌が好きな人、のべつ歌を歌っている人がいたら、流しという存在である可能性が高いと笑いながら言った。
「きょう、流しの元締めがやってきます。市場視察です」
「流しの元締めってなんですか?」
「われわれ流しの監督です。定期的に回って足りないところ、未熟なところを指導してくれるんです」
 スズキは居酒屋の暖簾を描き分けた。いつになく居酒屋は空いていた。早かったかもしれない。客は誰もいなかった。きょうは休みかとも思ったが暖簾は下がっていたから店の奥に進んだ。物音がし、人が動いたような気配があった。カウンターをのぞくと男が二人いた。一人が一人を仰向けにして激しく殴りつけていた。殴られた男は鼻血を出しうめいていたのだ。殴っていた男がスズキに気づいて、起き上がった。
「あ、いらっしゃいませ。気が付きませんで」
 殴った男は立ち上がって、少しバツが悪い表情をした。
「見られちゃいけないところ、見られちゃいました。申し訳ありません」
 見慣れた居酒屋の店主だった。殴られた男もよく見る若い従業員だった。
「どうしてそんなことを…」
 居酒屋の店主は言った。
「普通の人が見ると酷い姿に見えるかもしれませんが、われわれの間では普通、よくあることなんです」
 殴られた若い男は立ち上がって、口元に血糊を残したまま愛想笑いをした。
「あまり言うなって言われてるんですけど、われわれは人ではありません。居酒屋です」
 スズキは言った。
「まさかあんたも居酒屋という存在?」
「ええそうです。居酒屋をやるために存在しています。他に何もできません。居酒屋ができなくなったら存在できなくなります」
「同じこと、流しの人も言ってた。人でない存在って。他にもいるの?」
 居酒屋の男は言った。
「まあ、いろいろいますね。居酒屋やバーやスナックなんかには多いですよ。昨日も向かいのスナックで女性店主がアルバイトの女の子を激しく殴ってました。でも問題ありません。傷もすぐ治るし、絶対死にませんから」
 居酒屋の戸が開き、顔の色艶が良い老人が入ってきた。
「流しの元締めがいらっしゃいました。市場視察です」
 老人はスズキに軽く会釈をした。流しの歌を聞いていただいていますか、ありがとうございます。そんな意味のことを言って消えた。
「あの方、見たことあるような気がするんですけど」
「ええ、見たことあると思いますよ。国民的歌手と呼ばれてます」
 そうか、あの国民的歌手も人でなく歌う存在だったのかとスズキは思った。なんだそうだったのか、人でなく一つの職業に特化した存在というものは意外とあちこちにあるものなんだなと知った。
 考えてみると、自分だって何かに特化した存在かもしれい。ずっとサラリーマンをやってきた。もしかしたらサラリーマンしかできないからサラリーマンをやってきたのかもしれない。自分もサラリーマンという存在だと言われても否定できない。ただ、殴られても死なないかどうかはわからない、あまり殴られたことがないからだ。でもやっぱり殴られると痛いだろうなと、スズキは思った。
(了)



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2020年01月19日

「天気予報」作・田畑稔(no.0219.2020.01.27)

 史上最大級の台風がやって来た。マスコミは通常番組を全部押しのけて台風報道を続けていた。なにしろ史上最大級の台風が来る、風雨も強まり高潮も発生する、死者や行方不明者も十分に予想される、準備と対策を怠りなくと懸命に伝えた。
 だが人々が空を見上げると、天気は晴朗、風もなく陽はさんさんと降り注いでいた。野や山に昆虫や小動物は遊び、川に魚が泳ぎ、牛はよだれを垂らして欠伸をし豚は肥え太って眠る。そんな平和な風景が広がっていた。
「本当に台風が来るの?」
「天気予報ではそう言ってるね」
 テレビでは、刻々近づく台風を伝えていた。関東地方をすっぽりと包むくらいの大きな台風がもう間近だった。しかし、外を見ると、これ以上ない、つい眠ってしまうような初夏の陽気であった。
「台風の準備してる?」
「本当に来るの?」
「テレビでは言ってるよね」
 だが天気予報では史上最大級の台風襲来と報じ、市民は家屋敷、財産を守れ、命を守れと口角泡を飛ばした。だが町では一向にその気配はなかった。平和を絵に書いたような風景であった。
 町は台風の目に入ったのではないかと、人々は言った。台風の目に入ると、そこは風も雲もなく晴天であり台風を忘れると言う。むかし大きな台風の目に入り込んで台風は去ったと勘違いし出航した連絡船があった。連絡船はすぐに暴風圏に突入し、船は浸水し沈没した。この船は✖✖丸台風といい、その教訓から後の天気予報を発達させたと言われている。
「台風の目? そんなものはないな。周囲には何もない」
「遠くの山に傘がかれば雨が降るとかいうが、かかってない。連日晴天で雨の降る気配もない。もちろん台風の目なんかにないと思うよ」 
「どこの天気予報なんだと聞きたくなるね」
 あまりに天気予報と実際の気象状態と大きく違うのでテレビ局に問い合わせをした。だが、当方では台風報道をしたことはないと言った。いくつかあるテレビ局に問い合わせをしたのだが、台風報道をしているテレビ局はなかった。
「どこに問い合わせしても、台風報道をしているテレビ局はない」
「どこのテレビ局なんだ」
 天気予報では台風は上陸した。北✖西に進んでいるから、その方角に住む人は十分注意してくれと言っていた。天気図によると町は台風の方向にあり、そろそろ風雨が強まるころであった。
 天気予報の番組からテレビ局の電話番号がわかった。 
「テレビ局がわかった」
「どこの放送局?」
「✖✖S局だって書いてあったけど、電話しても通じないのよ。現在使われておりませんと出る」
 電話は通じないが、放送されていた番組のメールアドレスに送ると通じた。番組で放送された。台風が来ると言っているが、うちの町は好天続きであるというメールが届いたと。だが、放送されている通り台風は上陸した、勘違いではないかという内容であった。
「勘違いじゃないよ。だって晴れてるじゃないか」
 テレビではやっぱり、台風は上陸していた。暴風雨の映像が映し出された。乗用車が水没し流れた。だが町では依然として好天だった。
「ここはずっと晴れてるよな」
「そう、いったいいつから晴れてるんだっけ?」
「最近雨降ったのいつだったかというと…」
「覚えてないよ」
 町では雨が降ったことがなかった。
「気にしたことないから気づかなかったけど、雨も雪もアラレもヒョウも一切降ったことがないね」
 そういえば長いこと雨も雪も何も降ったことはなかったが、飲料水や田畑を育てるのに必要な水はあった。足りないということがなかったため降らないことに気づかなかったのだ。
 町の人は小川のせせらぎを眺めていた。清流の中にウグイが群れていた。釣れば食することもできる。
「きれいな小川よね」
「素晴らしい環境だと思うわ」
 軽飛行機が飛び上がった。町は緑に包まれ、澄んだ川と少しだけ道や建物が見えた。これほどの環境はない。町の人々は自分たちを誇った。ただ、疑問もあった。そういえば誰も雨の記憶がないがそれはおかしいじゃないかと、ようやく町の人は疑問に思い始めた。もちろんきっかけは天気予報だ。町は好天続きなのに天気予報では台風が報じられる。町と天気予報とではまるで正反対の天気、まったく別世界の様相を呈していたからだ。
 小型飛行機の先に異変があった。遠くから見ると町の空は続いていた。だが飛行を続けているとどうもおかしい。壁があった。壁はペイントされており、遠くから見ると青い空、白い雲、緑の山なのだが、傍にいくと壁なのだ。それもお世辞にも上手いとは言えない描かれた壁であった。
「この壁はなんだろう」
「まるでちゃちな舞台背景だな、いや銭湯壁画だ」
 銭湯壁画はどこまで続いているのかと調べた。壁画は閉じていた。要するに町は巨大なドームになっていて、町はドームの内側にあったのだ。
「ドームだから、天候の影響は受けなかったということか」
「天気予報が町の天気と無関係だったわけだ」
 町の人はドームで暮らしている自分たちの身の上を考えるようになった。
「われわれはいつからドームで暮らしているんだろう」 
「オレは少なくともここで生まれてここで暮らしているから、いままでドームが我々の世界だと思っていた」
 町の人は町の外へも行ってみたかった。誰もが外を経験していないからだ。だがドームから出ることはできなかった。出入口がないのだ。壁を破壊すればいいのかもしれないが、壁はどれほどの厚さがあるのかわからなかったし、第一壁を破壊する道具がなかった。今まで必要がなかったから、壁を壊すという発想がなかった。
「そういうものは必要がない、必要性を感じられないような町の仕組みになっているんだろうね」
「町って誰が造ったの?」
「わからない」
 ドームは意外と小さいことがわかった。壁画が広く感じさせたが小型飛行機で行くとわずかな時間で到達する。町の人は自分たちは思いのほか小さな空間で生きていたことに気づかされた。
「そうだ、テレビ局にメール送ってみようよ」
 天気予報と町の天気が食い違ったとき、テレビ局にメールを送ったことを思い出した。現在のところ外の世界と連絡する方法は他になかった。テレビ局にメールを打った。自分たちはドームに住んでいる、自然豊かな大地だと思っていたが、実は小さなドームにいた。だがドームから出る方法がない、助けてほしいという内容だった。そうして天気予報ニュースを見た。ドームの皆さんからメールが届いている、皆さんを助けたい、ドームとはどこにあるのかという返信だった。
「これは困ったな。ドームはどこにあるのか、オレは知らん。生まれてからドームから出たことがないんだ」
「ドームの外には、ドームがどこにあるか知られてないのか?」
「知られてないようだ。それどころか場所も、連絡先も全く分からない。誰も知らないのだ」
 テレビ局からメールが届いた。ドームの行方を探しているときに一つの有力情報に接した。特殊金属で造られたドームが見つかった。ドームは内部にそれらしい構造を持っていた。これまで言っていたドームかもしれなかった。だが一つだけ問題があった。ドームはものすごく小さかった。町の人はメールを受け取った。
「私たちのドームが小さいということは、そもそもわれわれが小さいということなのかな」
「信じたくないが、われわれは小さいかもしれない」
「どれくらい小さいのだろう」
「それは、ドーム一つがバスケットボールぐらいということらしい」
「バスケットボールとはどれほどの大きさなんだろう」
 だがドームにバスケットボールは存在していないので大きさはわからなかった。
 テレビ局はドームを見つけて穴を開け始めた。とても硬質な金属に穴を開ける作業が続き、しばらくしてドームに穴が開いた。テレビ局はその穴を観察した。なんらかの構造はあった。テレビ局は顕微鏡を持って来たがよくわからないので今度は光学顕微鏡を持って来てドームの内部を観察した。すると見えた。人がいた。手を振っていた。町の人は実は細菌と同程度のサイズしかなかった。だが彼らは自分たちを懸命に誇示した。テレビ局にとっても大変な発見だった。だがその時、光学顕微鏡をのぞいていたテレビ局員がクシャミをした。それだけなのだが、町の人々は全てどこかに消え去ってそれきりとなってしまった。そのとき慌てて研究者がやってきた。
「このドームに穴を開けたのか?」
「開けたけど」
「まずいよ開けちゃあ」
 研究者によるとドームは細菌の培養槽だった。細菌は乳酸菌に近いもので人体に無害ではあるが、開けちゃあ困るとしきりに言って怒っ た。
(了)


 
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